9 現存在であることとしてのケアーーハイデガー
ハイデガーは人間を、世界内存在である現存在として定義する。ここでは世界に存在していることは、現存在を、「客体」としての世界と対置される「主体」と考えることは不可能であることを意味している。世界は現存在と相互に関係し合い、両者を互いに分けることはできない。現存在は、自身の存在は死の危険にあり、その世界は消えうることを知っている。したがって現存在は死への不安を持っている。現存在の存在とは、未来へと方向づけられた投企であり、われわれは永遠に未来に向けて何かを計画する。このように計画することは、われわれはこれからも存在し、われわれの存在を気にかけ(ケア)なければならないことを前提としている。
セルフケアは現存在の基本的な存在様態である。
世界は消滅する可能性があるので現存在は世界の存在を心配する。
現存在はそれ自身を気にかけるがゆえにそこにあり、それ自身を心配している状態でそこにある。ここで、ケアは人間存在の中心となる存在論的様態となる。
ハイデガーによってケアは現存在が世界を気にかけることとして理解される。「現存在はいつも己の可能性を存在しているのであって、それをただ客体的な属性として「持っている」というわけではない。そして、現存在が本質上いつもおのれの可能性を存在しているがゆえに、この存在者はその存在において自己自身を「選びとり」、獲得し、あるいは自己を失い、また、ただ「みかけだけ」自己を得ているだけで、いちども本当に得なかった、というようなこともありうるのである」。
セルフケアは、他者や他のものによってコントロールされた世界の中の物になることに抗い、世界内存在である現存在の特殊な存在様態のために戦うことを前提としている。
現存在は世界の中にあるのであり、世界のコントロールの内にあるのではない。現存在がその世界を技術的な手段でコントロールしようと試み、対象にまで還元された世界を支配する主体となろうとするまさにそのとき、危険が現れ、増大する。
ハイデガーによれば、存在の不伏蔵性は芸術を通じて生じる。
現存在が死ねとき、ケアの世界が消える。物つまり肉体のみが残り、大地に吸収される。ここでは現存在と芸術作品との間のアナロジーが明白になる。 作品はその世界を明らかにすることで、この公衆つまり「民衆」に対して衝動と一定のエネルギーを与える。そしてこの衝動が歴史的に有効である限りにおいて、「民衆」の現存在の容態は同じものであり続ける。
芸術家は「存在の明るみ(Lichtung des Sein)の中で自分自身を見出す貴重な瞬間にそれを吸収することができる。
芸術家は、たとえ完全にコントロールできないとしても、自分の民衆の歴史上の運命を気にかける。
10 掃除婦の眼差しのもとでーーフルードロフ
「もの化」は奴隷と結びついているために、人間が「もの化」されることはしばしば批判される。
物になることはケアの対象になることを意味しうる。
人間の眼差しには人間の身体しか見えない。
人間は、自然それ自体という偉大な芸術家によって生み出された芸術作品として、他者から理解される限りにおいてのみ、保護される。
芸術に進歩はない。芸術は未来のより良い社会を期待することなく、いまここを永遠化する。しかしながらそうすることで芸術は、ブルジョワ社会で実践されているように、通常物そのものに関しては機能せず、物のイメージに関してのみ機能する。保護し、取り戻し、蘇らせるという芸術の課題は、こうして究極的には達成されないままである。
どんな技術革命もしくは政治革命も、最初にもたらすらのは人間の身体の非組織化であるそれは芸術革命の結果としての芸術作品の非組織化と同じである。
仕事の社会はケアの社会ーー制度によるケアとセルフケアーーへと取って代わられる。
ケアのシステムを通して人間の身体はレディメイドとなると言うことができる。
ケアのシステムは、決して働くことができず、決して将来においても働くことができないであろう身体をも包摂する。
医学は、われわれの欲望全てに役に立つのではなく、基本的なもの、つまり自己保存の欲求のみに役に立つ。
治癒されることは使用可能な状態に戻らされることと同じではないのだ。
『ケアの哲学』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳
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