関係性
要するに自己とは思考であり、そのような自己が互いに関わりあう諸様態は、その構成的な記号論的性質と、ひとつの自己が引き起こす、特定の連合論理とに起因している。諸自己がこの自己の生態学において関わりあう論理を検討することによって、私たちに求められるのは関係性ーー私たちの分野における根源的な関心事であり、中心的な分析概念であるものーーを再考することである。
もし、自己が思考であり、それらが関わりあう際の論理が記号論的であるならば、関係とは表象のことである。つまり、自己の関係を構造化する論理は、記号の関係を構造化する論理と同じであるということである。このこと自体は、目新しい考えというわけではない。自覚的に私たちがそのような考え方をしているかどうかはともかく、社会や文化を理論化する際に既に表象という観点から関係性を考える傾向がある。
ブルーノ・ラトゥールの「行為者」、アクターネットワーク理論におけるネットワーク、ハラウェイの「構成的内=行為」といったポストヒューマン的な関連性概念でさえも、人間の言語に見られるようなたぐいの関係性に起因する、関連性についての前提に依存している。
言語的な関係性を非人間に拡張することは、人間的なるものを超えて広がるものに対して、自己陶酔的に人間的なるものを投影することである。そして、言語の後を追うようにして、体系性、文脈、差異に関する前提の一群が到来する。
要するに私が主張したいのは、記号論ではあるが、必ずしも言語のようなものではないものとして関係性を理解することによって、人間的なるものを超えた人類学は関係性という概念を再考できるだろう、ということなのである。
ダニが見境なく、哺乳動物の血を吸い、それらを区別できずにいることのおかげで、寄生虫はある種から別の種へと移動することができる。こうした見境のなさは混同のひとつのかたちであり、もちろんそれには限度がある。
私たちがイコン(類似性を介して意味する記号)を扱うときには、異なっていることを既に知っている何か別なものの相に似ていると受け取ることが想定されている。
しかしここで示唆されるのは、あらゆる記号過程に通底する、より根源的なーーだが誤解されることもよくあるーーイコンの特性である。自らが寄生している存在のあいだの違いに気づかないために、ダニにとっては、諸々の哺乳動物は等価である。
このイコンによる混同は生産的である。それは「たぐい」を創造する。成員のあいだに区別を設けることのないダニが成員全てに気づくために、個々の成員が互いに結びつけられるような、存在の一般的クラスが出現する。
生ある存在の世界はただの連続体でもなければ、人間の精神がーー社会的な規約や生得的な傾向に基づいてーー分類するはずのバラバラな特異性の集まりでもない。たしかに、範疇化は社会・文化的な特殊なものでありえるし、範疇化されるものの独自性を消去する点において、ひとつの形式の概念的な暴力に至ることもある。人間の言語の力が、細部に対してより一層無頓着になるようにして、局在するものを飛び越えるその能力にあることも、また確かである。
「虫の目」で世界を見ることには、多くの場合、私たちがそれぞれ異なるものだと見なす諸実体を混同することが含まれている。そして、こうしたたぐいの混同は人間に限られたことでもなければ、もっぱら破滅的なことでもない。
諸思考の生命は、混同することーー差異に気づくのを「忘却」するようなことーーによっている。諸々のたぐいやクラスといった一般は、混同に基づいて関わりあうという形式を通して、世界に出現し、繁栄する。実在するものとは、ほかのあらゆるものから異なった、唯一の特異性のことだけではない。諸々の一般もまた、実在する。そして、一般の中には、人間的なるものを超えた生ある思考のあいだの諸関係から生じるものもある。
『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳
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