第七章 リアリズムについて
多くの伝統的なイメージ、たとえばイコンは、非リアリズムであると思われる。なぜならばそれらは、「他のもの」や通常目に見えない世界を提示することを目的としている。近代の芸術作品は、われわれを世界の「本質的な核心」もしくはその「主観的なヴィジョン」に直面させることを目的としており、それもまたわれわれにはリアリスティックなものとして認識されてはいない。顕微鏡や望遠鏡の助けを借りて制作された絵を見るとき、われわれはまたリアリズムとは言わないだろう。リアリズムの芸術は、あらゆる宗教的哲学的ヴィジョンや思索、また技術的に生み出されたイメージをまさに拒絶しようとし、その代わりに平均的で普通で世俗的な世界の見方を生み出そうとすることとして定義される。しかしこの再生産は、時間の流れから物の特定の状態を取り出すという、ある「非リアリスティック」な側面を持っている。
この意味で、模倣的で具象的なリアリズムは、もし芸術として提示されなければ見えないままにとどまっているであろうものを見えるようにする。実際、あらゆる通常の物を見ることは難しい。なぜならばそれは物質の流れの内側に存在しており、無限で滅びるべききものであり、定期的に形を変え、短い間のみしか見えないからだ。
真に物を見るためには、われわれはそれらを使用するのをやめ、それらを鑑賞し始めなければならない。
科学は、物の通常の日常的な使用もしくはこの使用の様態という視点からは物を見ない。むしろわれわれ自身の物の使用を示し、そのようにして世界におけるわれわれわれの存在の仕方についての真実を告げるのが芸術である。
(もしくはデュシャンのレディメイドの実践のように)機能しなくなったものとして物を示すモダンアートの傾向を考察する。
具象的で模倣的な芸術作品を見ると、われわれは作品自体の物性を必然的に見落とす。そしてまた、その可視性を保証する芸術作品の制度的な枠組みを見落とす。
今や芸術作品は芸術作品であるから価値があるのであり、それが何かを表象しているからではない。
芸術は物およびそれらの使用を可視化するが、一時的に、閉鎖の後の開示を通してのみ可視化する。可視性は可能であるが、一時的にのみ可能である。
真の革命の時代にのみ、普遍主義の、直接的な現実主義のアヴァンギャルドの衝動は、一般的な気分と一致する。しかしそういう時代は歴史的に稀である。
アヴァンギャルドの芸術家たちは自分の芸術作品を物質的な流れの中に投げ入れようとしていた。
概して、一九六〇年代の芸術に特徴的なハプニングやパフォーマンスは、参加者たちの親密なサークルのために行われた。
インターネット上では情報の流れの中で溺れるという事実の結果でもある。こうして、現代美術はその可視性の低さと一時的な性質を、世界のあらゆる他のものと真に共有しているのである。
唯一の違いは、芸術家は個別の物とその可視性に対して責任を持つということである。
われわれは事物、情報、経済的な出来事の流れについて、あたかもこの流れが中立的で、誰も特にそれについて責任を持たないかのように語る傾向がある。
芸術家がわれわれに提供する物に対して個人的もしくは集団的に責任を負うことで、実際に芸術は政治的なものになる。そして芸術はそのようにすることで、さらなる個人的な責任についての問いを選ぶようわれわれを挑発する。結局全世界はありうるかもしれない芸術行為の場であり、それは、行為を通しであれ、何もしないことを通してであれ、芸術が全世界に対して責任をとる可能性があるということを意味する。
『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳
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