mitsuhiro yamagiwa

訳者あとがき

 オートポイエーシス論にいわせれば、生物が規則的な振る舞いを見せるのは、規定された規則にしたがって運動するからではない。或る行為がうまくいくことにより、その結果として事後的に暫定的に規則のようなものが産出されているのである。つまり偶然性の中を生きられたという再帰性により結果的にパターンが産出される。このパターンこそ原初的な情報にほかならない。規定を前提にした機械の規則性とは順序が逆なのである。ようするに、機械は他律システム、生物は自律システムともいえる。

 つまり観察視点がシステムの作動そのものの内にあるか、それともシステムを対象として外から観察しているかの違いともいえる。

 感性は機械のセンサーとかわらないのかどうか。これらもまた或る意味では観察視点の問題といえる。知性的そして感性的な直観は外からの観察ではなく内からの観察にほかならないからである。

 サイバネティクスはそもそも、対象としてのシステムをいかに制御するかの学問ではなく、未知の偶然的な環境の只中に置かれたシステムがいかに目的を達成するかを探求する学問であったからである。これを生物の視点からの科学といってもよい。生物をいかに機械化するかではなく、生物がいかに生き延びるか、そしていかに無秩序で偶然的に見える環境にあたかも機械的な秩序と必然性をつくりだしてゆくかが問われていたのである。

 かかる環世界はその生けるシステムにとってのつねにすでに生きられた意味すなわち価値からなる世界である。この意味と価値こそ原初的な情報にほかならない。すなわち生命情報である。生きるものは、みずから生きることで、生きられた意味と価値からなる世界がおのずとできあがり、この世界の内に置かれており、そしてこの世界を土台としてまた生きる。

 この世界内の誰のものでもない外部の超越的な視座から見た差異をつくる差異が情報なのではない。情報とは、ほかならぬかけがえない或る生きるものにとっての意味と価値であり、しかもこの生きものは、みずからの環世界のうちに生きながら、その環世界をおのずと構成している、そういう生きものなのである。したがって基礎情報学からすると、情報とは生物がそれによってパターンをつくるパターンなのである。情報とは本来、或る生物にとっての意味すなわち価値なのである。この意味で情報は根本的に多元的な概念である。

 ようするに、生命情報と社会情報と機械情報は相互に転化する連続したものであるが、根源的には情報は生命情報として産出される。まず無意味な形式的記号があり、そこに意味が発生するのではない。まず意味が産出され、そこから無意味な記号が発生するのである。この情報の逆転は先に述べた生物の規則性と同様である。この仕方で、機械的なものが生けるシステムの内に位置づけれ、機械と生物が情報という観点からつながる。むろんそれは機械と生物の同一性としてではない。生命情報から機械情報への転化としてである。

 生きものたちの環世界の構成には、間主観性、そして本書の著者がいう間対象性というものがある。

 こ畢竟、近代文明は人間中心主義とはいっても、そこでいう人間とは自然をかり立てるテクノロジーにかり立てられた人材でしかなく、実情はテクノロジー中心主義にほかならないというのがテクノロジーの哲学による評価なのである。

 わたしでありながらわたしでなく、わたしよりもわたしであるもの。非人間的なもの。

 不可知のもの。未知のもの。筆者はそれを合理化せよという。

 原島大輔

『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。