mitsuhiro yamagiwa

2022-11-26

未分化の領域

テーマ:notebook

本当の意味で政治的なのは、暴力と法とのあいだのつながりを断ち切るような行動だけなのだ。

第1章 統治のパラダイムとしての例外 

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 「必要は法律をもたない」

 もし例外というのが、法が生に関連させられ自らの一時停止をつうじて生を自らのうちに包摂するさいの独自の装置であるとするならば、例外状態についての理論は、生きているものを法に結びつけると同時に見捨ててしまうような関係を定義するための前提条件となる。

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 現代の全体主義は、例外状態をつうじて、政治的反対派のみならず、なんらかの理由によって政治的システムに統合不可能であることが明らかとなったさまざまなカテゴリーの市民全体の物理的除去をも可能にするような、合法的内戦を確立しようとしたものと定義することができる。

 例外状態は、「世界的内戦」と定義されてきたものの押しとどめることのできない進行を前にして、ますます現代政治において支配的な統治のパラダイムとしてたち現れつつある。一時的で例外的な措置がこのようにして統治の技術に転移したことは、憲法体制の諸形態についての伝統的な区別の構造と意味を根本から変容させかねない。そしてすでに事実上、それと察知できるぐらいに変容させてきている。それどころか、例外状態は、こうした展望のもとで、民主主義と絶対主義とのあいだに設けられた決定不能性の閾として立ち現れるのである。

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 例外状態というのは、なにか特殊な法(戦時法のような)ではないのであって、法秩序それ自体を停止させるものであるかぎりで、法秩序の閾あるいは限界概念を定義したものなのである。

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 すなわち、「非常事態〔例外状態〕が(…)通常の状態である」ことからして、例外状態は、もはや例外的尺度としてではなく、ますます統治の技術として登場するようになっただけではなくて、法秩序を構成するパラダイムとしてのその本質を明るみに出すようにもなっていることを告知する先導役を果たしている。

 「われわれの民主主義を守るためなら、いかなる犠牲を払っても大きすぎるということはない。まして民主主義それ自体の一時的な犠牲などものの数ではない」ベンヤミン

 西洋の政治的文化は、ほかのさまざまな文化や伝統に民主主義の教えを垂れようとしたがっているまさにその瞬間に、民主主義の根本原則をまったく見失ってしまったことに気づいていないのである。

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 もし例外状態の固有性が法秩序の(部分的あるいは全面的な)停止であるとするならば、そうした停止がどうすればいまだに合法的秩序のうちに含まれうるのだろうか。どうすればアノミー〔規範を欠いた状態〕が法秩序のうちに位置づけられるというのであろうか。

 実際には、例外状態は法秩序の外部でも内部でもないのであって、その定義の問題は、まさにひとつの閾にかかわっているのである。言いかえれば、内部と外部が互いに排除しあうのではなく、互いに互いを決定しえないでいるような未分化の領域にかかわっているのである。規範の停止は規範の廃止を意味してはおらず、規範の停止が確立するアノミーの領域は法秩序との関係を失ってはいない(あるいは、少なくとも失っていないふりをしている)。

 いずれにせよ、例外状態の問題を理解するには、その問題がどこに位置しているのか(あるいは位置していないのか)を正確に規定することが前提となる。のちに見るように、例外状態をめぐる抗争は、本質的には、例外状態が位置する場所をめぐる論争として提示されるのである。

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 よく耳にする意見によれば、例外状態の基礎におかれるのは必要の概念である。

 すなわち「必要は法律をもたない」というわけである。そして、この格言は二通りの正反対の意味に解されている。ひとつは「必要性はいかなる法律も認めない」というものであり、もうひとつは「必要は自らに固有の法律を創り出す」というものである。

 「法律はすべて人々の共同の福祉のために命じられるのである。そして、このためにこそ法律としての力と根拠理由を有するのである。もしこの点において欠けるところがあるなら、それは拘束力をもたない」とする原則が究極の基礎をなしているのである。

 明らかに、ここでは、ひとつの状態、法秩序それ自体の状態(例外状態あるいは必要状態)ではなく、法律の力と根拠理由が適用できないような、そのつどの個別的な事例が問題となっている。

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 近代の法学者たちの登場とともに初めて、必要状態は法秩序のうちに包摂され、正真正銘の法律上の「状態」として立ち現れるにいたる。必要は法律が自らの拘束力を失うような特異な状況を定義するという原則ーーこれが〔必要は法律をもたない〕という格言の意味であるーーが、必要はいわば法律の究極的な基礎と源泉それ自体を構成するという原則に反転するのである。

 必要こそが法=権利なるもの全体の第一にして原初的な源泉であって、それに比べれば他のものはある意味で派生的なものとみなされなければならないと言うことができる。

 必要が法律を打破することがありうるということは、論理的観点からいっても歴史的観点からいっても、必要というものの本質それ自体と、その原初的性格に由来するのである。たしかに、いまでは法律は法的規範のもっとも高度で一般的な表現になってしまっている。しかし、法律の支配がそれ本来の領域を越えて拡大していこうとするなら、そのときにはそれは行き過ぎである。成文化されえない諸規範、あるいは成文化されることが適切ではない諸規範が存在するのだ。また、不測の事態が生じないかぎり規定されえないような諸規範も存在するのだ。

 つまり、必要状態というのは、そこにおいては事実と法=権利とが決定不能なものに転化してしまうようにみえる閾なのだ。

 いずれにせよ、本質的なことは、事実と法=権利が互いのうちへと消え去ってしまうような決定不能性の閾が生み出されるということである。

 必要という概念はまったくのところ主観的な概念であって、達成したいとおもっている目的と相関的な関係にある。

 したがって、必要の原則は、いついかなる場合でも、つねに革命的な原則なのである。

 このように、例外状態を必要状態に解消しようという試みは、説明されなければならないはずの現象の、同様にしてかつより深刻なアポリアに突き当たるのだ。必要が究極的にはあるひとつの決定に還元されてしまうだけではない。それが決定する当のものが、実際には、事実と法=権利とのあいだにあって決定不能なものなのである。

『例外状態』ジョルジョ アガンベン/著、上村 忠男・中村 勝己/訳より抜粋し流用。