問題は次々と起こっては消えていく。公衆もまた同じなのだ。どの瞬間にも、多くの異なる公衆が結晶化しつつあったり、消えつつあったりするのだ。
相互結合的行動は「多くの結果」を生み出し、その一つひとつがまた「相互に交差しあって」独自の問題を、つまりは、独自の公衆あるいは「特に影響を被った人々の集まり」を発生させるのだ。
公衆とは情動的に影響を受けたり与えたりする能力を持つ個人/個体の集まりである。そしてその問題群とは、公衆になるだろうという人たち、あるいは公予備軍が、他の人々たちの営みによってすでに間接的に影響を受けて行動の可能性を減じられていたことを示唆している。すなわち、公衆とは、他者の行動によって害を及ぼされた個人の集まりであり、さらに両者の行動が相関的に交わっていくと、自らの行動から生じてくる種々の行動によって害を及ぼされることさえある集まりなのだ。害を受けた個人たちは、互いに結束し、力を回復し、さらなる害を防ごうとし、あるいはすでに被った損害を回復しようとして、新しい行為にとりかかろうとするーーこれこそ、彼らの政治的行動となるのだが、幸か不幸か、この行動もまた、間接的で予想のつかない様々な結果の連なりへとつながっていくのである。
ラトゥールは、媒介者的能力を「出来事」にも分配する。政策の方向性と政治の空気というのは、命題/提案の総計には、たとえそれが存在論的に多数の公衆のものであったとしても、還元できないのだ。というのは、いつも行動にはちょっとした驚きがともなうからだ。「あるのは出来事なのだ。私は決して行為しない。私はいつも、私がすることによって少しばかり驚かされる。私を通して行為するものもまた、私がすることによって驚かされる。変成し、変化し、分岐する機会によって」。
民衆とは、彼によれば、「人口の総和でもなければ、その内部で冷遇されている部分でもなく」、巻き込まれている特定の個体の群へと還元することのできない「過剰」なのだ。
『震える物質』ジェーン・ベネット/著、林道郎/訳
“公衆と民衆、大衆のちがい””を検索してみた … 。
「公衆」は不特定または特定の多数の人々を指す社会的な用語(例:公衆電話、公衆の面前)である一方、「民衆」は支配される側の人々、あるいは普通の人々(大衆、世人)を指す歴史・政治的な用語です。公衆は「世論形成の主体」という視点、民衆は「支配・被支配の視点」で使われます。
公衆と大衆の主な相違は、個人の主体性と理性的な判断力にあります。公衆はメディアを通じて情報を得て、意見(世論)を自律的に形成できる主体的な人々です。一方、大衆は無定形な無数の集団で、受動的、感情的に反応しやすい人々を指します。