
| 何かを混雑に思惟する者は、幾つかの徴表を、曖昧に表象しているのである。
| 普遍性の観点から区別するならば、実践が個別的であるのに対して、理論は普遍的である。バウムガルテンは、「美しい思惟内容の一般理論と実践、個々の遂行が混同」されてはならないと言う。
| 我々にとって一層近いもの(一層特殊な規則)が、一層一般的な規則に、という意味。
| 表象は、それが他のものの理由である限りで論証である。従って、論証には、豊かにするもの、高貴にするもの、証明するもの、照明するもの、説得するもの、感情を喚起するものがある。美学は、それらのものの力と効果だけでなく、洗練をも要請する。
| 思惟には二つのあり方があり、その一方は「連続的で、一層広いもので、これは修辞学に属し」、もう一方は「切り詰められ、一層縮約されたもので、弁証法に属する」というものである。前者は美的地平、後者は論理的地平に特有である、と私は主張する。
ー
| 美的なものにあって中庸なものは何ら望ましいものではない。
| より大きなことができるものは、より小さなものにも適しているからである 。ここには、美的なものにおける簡素なあり方の思惟と、論理的で、切り詰めたあり方の思考との間の新しい違いがある。
| 観客や「聴衆は」、見たり聞いたりするとき、「心のうちに或る予期を持つ」。
| 必ずしもどんな性質の真理でも正確であるわけではないように、美的真理、及び、鈍重で、あまりに民衆的、否、平民的な真実らしさすら思惟されうる。この真理は、いわゆる学問的な純粋理性、悟性の試金石ではないにせよ、感性的ではあるが、一層精妙な趣味と成熟した判断力との試金石によって、その中心的部分は検証されうる。
| 作品の部分についての判定は感性的であり、作品の全体についての判定は知性的になる傾向がある。
『美学』アレクサンダー・ゴッドリープ・バウムガルテン/著、松尾 大/訳

| 美学は「感性」についての思考ではない。美学は、それが成立して以後、芸術にかかわることがらを定義しうる逆説的な感覚についての思考である。この感覚は、失われた人間的本性がもっていた感覚、すなわち能動的能力と受動的能力のあいだの失われた適合規準を示す感覚である。
| 芸術にかかわることがらであるその固有性は、作り方の区別によるものではなく、存在の仕方の区別によるものである。これが「美学的」という言葉が意味することである。すなわち、芸術の美学的体制において、芸術であることの固有性が与えられるのは、もはや技術的な達成という規準によってではなく、特異な形式によって感覚的な把握が目ざされていることによっているのである。
| 芸術の産物は、作られたものが作られていないものと同じだという性質を、知られたものが知られていないものと同じだという性質を、望まれたものが望まれていないものと同じだという性質を、感性的に明らかにするのである。
| 芸術を美学から引き離すのは、もっぱら芸術を倫理的に不分明なものへと向かわせるためである。
| ランシェールによれば、美学的体制が生まれて以後、芸術は表象的体制におけるさまざまな規範から解放された。その結果、芸術は、作品に直面した際に引き起こされる違和感や宙吊り感によって芸術だと同定されることになった。つまり芸術は、原理的にディセンサス、異質性、不和をもたらすものであり、いまある「感性的なもの」のコンセンサスを揺り動かし、傷つけるものだということになる。芸術はつねに更新されるべきものであり、ランシェールがクリティカル・アートを評価するとしても、それが自らをつねに更新する装置を備えている限りにおいてのことである。
『美学における居心地の悪さ』ジャック・ランシェール/著、松葉祥一・椎名亮輔/ 訳
≫ クリティカルアートは浸透するのか?!
経済優位の同時代性や市場価値ばかり取り沙汰される昨今、美術史上の価値は空無となって置き去り…。
起点をなす動機は不確かであるからこそ、創造 ⇄ 想像という転回、その行き来は既存の概念から実生の感覚へ、もはや表裏一体は二重化されて混合し渾然一体、記憶 ⇄ 記録は不確かな虚実を孕む、再現 ⇄ 現前へと委ねられるしかないのだろうか。