もし動物がいなければ、人間の本性はさらにいっそう不可解なものとなるだろう。
ジョルジュ=ルイ・ビュフォン
実際に人間は、すでに動物に戻っていたのである。
人間が人間的たりうるのは、ひとえに、人間というものを支える人間化した動物を超越し止場するかぎりにおいてなのであり、いいかえるならば、人間が否定的活動をつうじて自己自身の動物性を支配し、必要とあれば、それを破壊することによってのみ、人間は人間的たりうるのである。
むしろ人間は、特定の原型に基づかずに創造された(不特定の像から生み出された)ため、人間にふさわしい「固有の相貌 」をなんらもっていないのである。
理性と動物の感性とは、それと気づかれないほどの変遷を経て相互に延長し合うものである
人間と動物を区分するのは言語である。しかし、言語は人間の心的構造のなかに先天的に具わる自然的な所与ではない。それどころか、言語は歴史の産物なのである。したがって、そういうものとしては本来、言語は動物にも人間にもあてがうことはできない。
直観という前言語的段階は唯一のものであり、二重ということはありえない。直観は、動物にとっても人間にとってもちがうものではありえない。
人間/動物、人間/非人間といった対立項を介した人間の産出が、今日の文化において賭けられているかぎり、人類学機械は、必然的に排除(つねにすでに勾留でもある)と包摂(つねにすでに排除でもある)によって機能している。事実、まさに人間がそのつどそのつどつねにあらかじめ前提とされているからこそ、人類学機械は、一種の例外状態、つまり外部が内部の排除でしかなく内部が外部の包摂でしかないような未確定の領域を現実に生み出すのである。
あらゆる環境は、それ自体のうちに閉じた統一体である。こうした統一体は、まさに人間の環境にほかならない環境のなかから、一連の要素や「知覚標識」を選択的に抽出した結果として生じてくるものである。
「何かを何かとして知覚する可能性そのもの」が動物からは剥奪されているがゆえに、「そして、いまここでだけ、ということではなく、まったく与えられていないという意味で制奪されている」がゆえに、ここで生じているのは、知覚することではなく、本能的な振舞いだけなのである、と。その可能性が動物からは根源的に剥奪されているがゆえに、動物は放心するのである。
放心こそ動物の本質である。それが意味するのは、動物は、それ自体としては、存在者の露顕性のうちにいない、ということである。動物のいわゆる環境も、動物そのものも、存在者としては露わにされないのである。
動物がとらわれざるをえない存在様態は、開かれてもいなければ、閉ざされてもおらず、したがって、それと関係することは、本来的には、真の関係として、あるいは関わり合いとして、定義されないからである。
存在者は、接近不可能性と不透明性のうちに、つまり、いうならば、非関係性のうちに開かれているのだ。人間を特徴づけるのが世界の形成であるとすれば、動物における世界の窮乏を規定するのは、まさに、この露顕なき開示なのである。動物はたんに世界を欠いているばかりではない。なぜなら、動物は放心のうちで開かれているがゆえに、ーー石が世界を剥奪されてしまっているのとはちがってーー世界を差し引き、世界なしですますことを余儀なくされるからだ。すなわち、その存在において動物は、窮乏や不足によって規定することができるのである。
動物は人間の側にはいないのであり、まさしくそれだからこそ、動物は世界をもたないのである。
開かれをもつということは、もたないということであり、より正確にいうならば、世界をもたないということである。
人間はつねに世界に向き合い、いつもただ「向き合って」いるだけで、けっして外の「純粋な空間」に近寄ることはない。その一方で、生き物のほうは、開かれのうちで、「否定のないどこでもないところ」で身を動かしている。
植物や動物は、みずからにとって外的な何かに依存しているのであり、外部も内部もけっして「見て」はいない。すなわち、存在の自由へとみずからが露顕されたありようをけっして見てはいないのである。
むしろ〔動物の〕生とは、人間世界ではおそらくまったく認識されない開かれた存在に充ちた領域なのである。
動物は抑止解除するものに対して開かれているとともに、放心のうちで本質的に他なるものへと放出されている。そして、その他なるものは、なるほどたしかに、存在者としても非存在者としても露顕されえないものだが、抑止解除するものとして、……動物の本質のうちに、ひとつの本質的な震撼を導入するのである。
倦怠とは、純粋なる状態のままにある幸福への希求である。
ジャコモ・レオパルディ
空虚は、ここでは、存在者をその全体のうちに包み込む無関心のうちにある。……それが意味するのは、倦怠によって、現存在が、全体としての存在者に直面する、ということである。
「現存在」は、退屈することによって、現存在から拒まれている何かと引き渡されるのであり、まさしく放心における動物のように、露顕されさるもののうちに曝されるのである。
人間の倦怠も動物の放心もともに、もっとも本来的な身振りにおいては、閉ざされに開かれているのであり、執拗に拒まれているものに完全に譲り渡されているのである。
むしろ、拒むことによって可能性を指し示し、その拒絶において、可能性を周知のものとしているのだ…….。全体としての存在者は無関心になった。しかし、それだけにはとどまらない。それとともに、なにか別のことが示唆されている。すなわち、現存在がもつかもしれない可能性の出現が生起している。しかし、まさしくこの倦怠において、この可能性は、不活性のまま滞留しているのであり、利用しえないものとして、われわれを置き去りにしている。いずれにせよ、われわれは、拒絶のうちに、何か別のものへの指示が銘みつけられているのを目のあたりにする。この指示は、不活性のまま滞留する可能性の告知なのである。
拒絶にともなう、この可能性そのものの呼びかけは、現存在の移ろいがちな任意の可能性をただ漠然と指し示すのではなく、むしろ、可能ならしめるものにまぎれもないかたちで純粋に呼びかけるのである。この呼びかけが、現存在の本質的な可能性全体をもたらし導くにもかかわらず、その可能性のために、われわれは見かけ上いかなる内実ももたないのであり、したがって、われわれが実在する諸事物を指し示し規定するのと同じような方法で、われわれは、この内実がいかなるものであるのかを口にすることはできないのである……。現存在をその可能性において本来的に可能ならしめるものに向けて告知しつつ指し示すということは、根源的に可能ならしめるという特異な点において必然的に強いられることなのである……。全体において拒まれている存在者から置き去りにされていながら、同時に、ぎりぎりの極限で、現存在それ自体の可能化そのものが強いられることもあるのだ。
可能性の不活性化においてはじめてそれ自体として立ち現われてくるものとは、すなわち、可能態=潜在性の起源そのものーーさらには、現存在の、つまり、存在可能性の形式のうちに実存する存在者の起源そのものーーなのである。だが、この根源的な可能態や可能化はーーまさにそれゆえにーー否定の可能態、つまり、無能性を構成する。というのも、できないこと、人為による個々の特定の可能性を不活性化することから出発してのみ、この根源的な可能化は可能だからである。
動物の環境は、純粋な可能性のようなものがそこではけっして立ち現われてこれないように構成されている。かたや深き倦怠のほうは、世界の窮乏から世界へ、動物環境から人間世界への移行が実現される形而上学的操作のように思える。
開かれにおいて賭けられている開示は、本質的に閉ざされへの開示であり、開かれをじっと見据える者は、閉ざされていること、見ないことしか見ていないのである。
存在は、その根源以来、無に横切られており、開かれは元をただせば無化なのである。
というのも、世界が人間に対して開かれるのは、生物とその抑止解除するものとの関係を遮断し無化するかぎりにおいてだからである。なるほどたしかに、生物は、存在を知らないように、無を知ることもまたない。とはいえ、存在は、「無の闇夜」のさなかに立ち現われるのだ。それはひとえに、人間は、深き倦怠を体験することによって、生物と環境との関係をあえて宙づりにしようとするかもしれないからである。忘却ーー講演の前口上によれば、存在を思惟されないままに与える現成するものとして、開かれのうちに君臨しているものーーとは、動物の環境の露顕されざるものにほかならない。それゆえ、忘却の記憶とは、露顕されざるものの記憶、世界が開示されるかもしれない一瞬前の放心の記憶を必然的に意味することになる。
現存在は、退屈することを習得した動物、自己の放心から自己の放心へと覚醒した動物にすぎない。生物がまさに自分が放心した状態へと覚醒すること、自己を開かれざるものへとーー苦しくとも決然とーー開くということこそが、人間にほかならないのである。
動物とは、人間によって守られ、そういうものとして白日のもとに曝された〈露顕されえないもの〉なのである。
動物の完全な人間化は、人間の完全な動物化に符合しているのだ。
動物的な生を宙づりにし生け捕りにすることによってのみ世界が人間に対して開かれるために、存在はつねにすでに無によって横断されている。開かれは、すでにしてつねに無化なのである。
「自然と人類のあいだの関係を支配する」とはどういう意味なのか。人間が自然を支配することでも、自然が人間を支配することでもない。
動物は、存在するものも存在しないものも、開かれたものも閉ざされたものも知らない以上、存在の外に存在している。つまり、あらゆる開かれよりもはるかに外的な外在性における外部、あらゆる閉ざされよりはるかに内的な内密性における内部に存在しているのだ。とすれば、動物を存在せしめるということは、動物を存在外に存在せしめるということを意味することになるだろう。ここで問題となっている、非-知ーーもしくは不知ーの領域は、知と無知、露顕と隠蔽、存在と無のいずれにとっても彼岸にある。にもかかわらず、こうして存在外に存在せしめられたものは、したがって、否定されたり除去されたりするわけではなく、それゆえ、非実存的なものではない。それは、存在と存在者のあいだの差異を超越した、実存的なものであり、実在でもある。
訳註
真理(A-letheia)という語が、ア(非)という否定の接頭辞とレーティア(忘却)によって構成されているということから、真理を「非 – 隠匿性」と考え、こうした真理が明るみに出される「開かれ」として現存在をとらえようとした。
解題
救われざる生の残余
猿とは、なんらかの理由で話すことをやめてしまった人間である。
レオポルド・ルゴーネス『イスール』
「絵はそのテクストを抹消しているのであり、絵の意味は、絵の背後にあるテクストのなかではなく、むしろテクストの抹消そのもの」にこそ求められるべきなのだろう。つまり、作品たることを否定する作品、作品を解体する作品=無為の作品として、このタブローを眺めてみる必要があるのだ。
人間は狼のように冷淡に振舞うことができる。
エリオ・ヴィットリーニ『人間と人間にあらざるものと』
「ユートピアが現われるのは、政治的なものが宙づりにされるときである」と指摘した。にもかかわらず、アガンベンがこの本で試みようとしたのは、むしろこれとは正反対のこと、つまり、ユートピアをかつてないほどに「政治化されたもの」として読みとるということであるようにみえる。
「「政治的なもの」とは、おのれのコミュニケーションの無為のために秩序づけられ割りあてられる共同体、つまり、この無為の分有を意識的に体験する共同体のことである」、と。
「政治とは、人間の本質をなす無活動、人間の共同体の根源にある無為なる存在に対応するものである。まさにそこにこそ政治がある。なぜなら人間とは、いかなる固有の活動によっても規定されない無為なる存在であるからだ。つまり、けっして同一性や資質だけに尽きることのない、純粋な潜在性の存在なのである」。
「可能性の不活性化においてはじめてそれ自体として立ち現われてくるものとは、すなわち、可能態=潜在性の起源そのもの〔……〕なのである。だが、この根源的な可能態や可能化はーーまさにそれゆえにーー否定の可能態、つまり、無能性を構成する。というのも、できないこと、人為による個々の特定の可能性を不活性化することから出発してのみ、この根源的な可能化は可能だからである」。具体的可能性すべてを宙づりにすることで、根源的な可能化を果たすという、この無為の空隙にこそ、アガンベンは、生政治に対抗する批判的ポテンシャルを託しているようにみえる。
「とかく近代人が、政治空間を市民権、自由意志、社会契約といった語によって想像しがちなのに反して、主権から見れば、真に政治的なのは剥き出しの生だけなのである」、と。
「規範は宙づりというかたちで例外と関係を維持する」(Agamben 1995)
人間的なるものの外への脱出、つまり、人間的なるもののほうを向いた領域でありながら、同時にそこでは人間的なるものが自分を疎遠だと感じるような領域におもむくこと。
パウル・ツェラン『子午線』
動物と人間の差異という、疑問に付すことすらはばかられるような、もっとも卑近な事象にこそ、実は、もっとも測りがたく疎遠な神秘が蔵している、ということ。
ハイデガーによれば、脱自とは、たんにみずからの外に脱出することだけではなく、「存在の開かれのうちに立つことでもあり、存在外に存在せしめる=存在を許すものでもある。そして、「存在は、本来的にその「開かれ」として脱自する」のである。このようにしてその存在を許された残余は、たとえ無為にして無知な救われざるものであったとしても、すくなくともあの「待つ」という営為=無為を分有してもいるのである。とはいえ、いったいそれは何を「待って」いるというのだろうか。
アガンベンの身振りと修辞ーー訳者あとがきに代えて
ユクスキュルにきっかけを得てこの哲学者は、抑止解除するものに本能的に捉われている動物の放心を、環境と自分自身とのあいだの一種の「宙づり」状態として規定する。一方、人間の倦怠を規定するのは、「空虚のままに残されてあること」と、「宙づりのまま保持されてあること」の二つの特徴であるとされる。とするなら、動物の放心と人間の倦怠とは、期せずして不思議な近接関係を示すことになる、とアガンベンは診断する。
「外」という概念が、多くのヨーロッパの言語において、「扉口で」を意味する言葉から引き出されているというのは、重要なことである
「外」は、ある特定の空間の向こう側にある別の空間なのではない。そうではなくて、通路=突破口であり、その空間に出入りするための外形なのである。
『開かれ 人間と動物』ジョルジョ・アガンベン/著、岡田温司・多賀健太郎/訳
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何かを誰かに説明することは、まず第一にその人に向かって、あなたは自分ではそれを理解できないのだと示すことだ。
知らないことを教えるというのは、ただ単に自分が知らないすべてのことについて質問することなのである。
解放された者が主にできることは、解放する者になることである。
知性とは、観念の結合である以前に注意であり探究である。そして意志とは、選択の審級である以前に、自らを突き動かす力、それ自身の運動に従って行動する力なのである。
真理はそれ自体で存在する。真理は在るものであり、言われるものではない。
我々をその不在の中心に結びつけ、その焦点のまわりを回らせる。何よりもまず、我々は真理を見たり示したりできる。
真理は語られるものではない。
人間は存在するから考えるのだ。
説明家が不平等を必要とするように、芸術家は平等を必要とする。
知性とは、相手の確認を通して自らを理解せしめる力なのである。そしてただ平等な者のみが平等な者を理解する。平等と知性は、理性と意志がそうであるのとまったく同じように、同義語なのだ。すべての人間の知的能力を根拠づけるこの同義性はまた、社会一般を可能にする同義性でもある。
種を保存するのは個人である。個人だけが、その役に立つようにと与えられた知性を自由に導くために、理性的な意志を必要とするのである。
平等は人間の間にしか、すなわちただ理性を備えた存在として互いを見る個人の間にしかない
理性は我々を必要としてはいない。我々の方が理性を必要としているのだ。
一個の人間のみが一個の人間を解放できる。一個人のみが理性的であることができ、それはただ彼自身の理性によるものである。
進歩するのは社会であり、社会は社会的にしか、すなわち全員一緒に秩序だってしか進歩できない。「進歩」は不平等を表す新しい言い方なのだ。
劣等は虚構でも暴力でもなく、ただの遅れにすぎない。そして説明家は遅れがあるのを見てとることで、その遅れを取り戻させてやることのできる立場に自分を置くのである。もちろん遅れを取り戻させてやることは永久にないだろう。
偶然のみが、制度化し具現化した、不平等への信仰を覆すに足る強さを持つのだ。
平等な人間たちのいる不平等な社会を作るのか、それとも不平等な人間たちのいる平等な社会を作るのか、選択しなければならない。
真理とは感じられるものであり、言葉で言われるものではない。
平等は与えられるものでも権利として要求されるものでもなく、実践され、確認されるものである。
平等は到達すべき目標ではなく、出発点であり、どのような事態においても維持すべき前提なのである。
訳者解説
梶田 裕
思考は自らの軌道を、誰の同意に頼ることもなく、ただ真理から逸れてしまうことがないように注意しながら描き続けるほかはない。思考は、誰かの同意を得ようとか、あるいは誰かを打ち負かしてやろうなどといったことを気にかけないのである。「真理は意識の孤独のなかでしか人間に語りかけはしないのだ」。真理への忠実さにおいて、一貫していればいるほど、思考は「恐るべき孤独」をもたらす。思考における真摯さとは、この孤独を引き受ける勇気でもある。
「理性は、正しさを有する目的で組み立てられた言説の止むところ、平等の認知されるところに始まる。その平等は法や武力によって発令されたもの、そのように受動的に受けられる平等ではなく、実地の平等である。つまり、自分自身に絶えず注意を払い、真理のまわりを果てしなく公転し続けながら、他人に理解してもらうために適切な文章を見つけようと歩んでいく者たちが、一足ごとに確認検証していく平等なのである」
「社会が理性に適ったものとなることは決してないが、理性的瞬間という奇跡なら社会にも起こりうる。それは知性が一致する瞬間ではなくそれでは愚鈍化になってしまうだろう、理性的な意志がお互いを承認する瞬間である」。
解放はプログラムではない。しかし、他者の知性を信頼し、その知性に自らの知的冒険を語る言葉を投げかければ、この言葉の予測可能なあらゆる効果を越えたところで、解放は常に可能なのである。
社会は必ずや理性から逸脱する。問題は、そのなかにあって理性を保つこと、そのなかで自らの知的冒険を続けること、それを他者たちに語り聞かせること、それによって他者の知性と意志を語らせることである。
平等の普遍性は、一人一人の人間が、そのつどそれを「特殊化」する事例を構築していくことでしか、いかなる実効性も持ちえない。
法は平等の保証とはなりえない。平等はただ、その特殊化の事例を確認し反復する行為のなかにのみ存在しうる。この意味では、平等の事例の一つ一つが、不滅であり永遠であると言うこともできるだろう。それは、不平等がそうであるような、単にいつまでもなくなることなく存続するという
再活性化され、実効性を持ちうるという、超時間的利用可能性である。
解放の論理は、社会の論理との緊張関係のなかで、社会のなかにその軌道を描く。
平等の宣言が社会のなかで聞き取られることを強制するためには、平等が社会のなかに闖入する出来事が必要なのである。
『無知な教師 知性の解放について』ジャック・ランシェール/著、梶田裕/訳、堀容子/訳
〜らしさの焼失 »