mitsuhiro yamagiwa

2022-05-06

部外者の視点

テーマ:notebook

第二章 逃げ切り不可能性

「すべてわかっているが行動しない者と、行動するが何もわかっていない者」との区別が登場する。

「人が芸術というモデルから学べるのは、芸術が他者であり続ける場合のみだーーそれは、人生とは異なり、人生を超越していて、決して人生に同化することのないものだ」

 デレズウィッツによると、ソーシャルメディアに多くの時間を費やし、ニュースサイクルに縛られるようになると、「あなたは社会通念にどっぷり浸かることになります。誰かほかの人の現実に浸かるということです。あなたの現実ではありません。他人の現実です。あなたは不協和音をつくりだしているのです。その中では自分の声すら聞こえず、あなた自身が考えているのか、それともほかの何かが考えているのか判然としなくなります」

「距離を取る」とは、離脱することなしに、自分だったらどうしていたかをつねに意識して、部外者の視点で考える行為だ。

「距離を取る」というのは、この世界(現在)を、そうなるかもしれない世界(未来)の観点から眺めることであり、その過程で希望を抱き、悲しみに満ちた観想を行うということなのだ。

 現在とは距離を取りながらも、現在にたいして責任をもち続けることで、人種差別、性差別、同性愛嫌悪、トランスジェンダー嫌悪、外国人嫌悪、気候変動、そして現実に何の根拠もないその他の恐れのような、種々雑多な「神話や迷信」から解放されたエピクロス的な豊かな生活の輪郭がおぼろげながら見えてくるのかもしれない。これは無意味なエクセサイズではない。注意経済の働きによって、私たちはつねにおぞましい現在に閉じ込められている。そういう状況だからこそ、直面している苦境と同じような例を過去に探すだけでなく、失望によって損なわれない想像力を保つということがますます重要になっている。
 だが、いちばん重要なのは、「距離を取る」ということが、どうしてもそこから出ていきたい(しかも永遠に)というやぶれかぶれの気持ちから、今自分がいる場所で拒絶し続け、拒絶という共有空間のなかで他者と出会う決意へと成熟する節目になるということだ。このような抵抗もまた「参与」なのであり、しかもそれは「あらぬ方向」への参与、つまり、覇権争いのゲームの支配体制を骨抜きにして、その外側に可能性をつくりだす、そんな方向へと向かうものなのだ。

『何もしない 』ジェニー・オデル/著、竹内要江/訳より抜粋し流用。