〔「具体的運動」〕
「掴む」こと、もしくは「触れる」ことは、身体に関してすら「示す」こととは別だということを、認めねばならない。
古典的な心理学は、場所の意識のこうした多様性をいい表わすいかなる概念も、持ち合わせていない。というのは、それにとって、場所の意識はいつでも措定できない意識、つまり表象であって、したがって場所を客観的世界の規定としてわれわれに提示する意識たからである。
われわれを動かすのは、われわれの客観的身体ではなくて、現象的身体である。
身体は主体とその世界からなるシステムの一つの要素にすぎない。そしてなさるべき仕事が遠隔作用する一種の引力によって、必要な運動を身体から獲得するのである。
われわれは文字通り、他人がわれわれについて考える通りのものであり、われわれの世界がそうである通りのものであるから、おのずと彼らに調子を合わせるのである。
ただ単に彼は彼の身体であり、そして彼の身体はある世界の能力なのである。
〔運動企投と運動志向、「投射の機能〕
まず知覚があって、これに運動が続くといった式の知覚があるのではない。知覚と運動とは、一つの全体として変化するシステムをつくっているのである。
〔「象徴機能」の実存的背景と疾病の構造〕
内容がついには形式の単なる様態のように見え、思想の歴史的な準備があたかも「自然」に化けた「理性」の策略とも見えるほど完全に、形式は内容を自己に統合する。ーーしかし逆にどれほど知的に純化されようとも、内容は根本的な偶然性としてどこまでも残るのである。
実存とは、事実と偶然に先だって存在するのでなければ、これらなしに存在するのでもないある種の理性によって、事実と偶然とをたえず引き受ける働きなのである。
カテゴリーは、それが結合する諸項に外的な意義をおしつける。
そもそもある真理を主張しうるためには、現実の主体があらかじめ一つの世界をもつか、もしくは世界に臨んでいるのでなければならない。
意識の本質は、自己に一つもしくは幾つかの世界を与えること、つまり、自己自身の前に自己自身のもろもろの思想を物のように存在せしめること、にある。そして意識は、自己に対してこれらの景観を描いて見せることによって、そしてまた同時にそれらから離れることによって、その力を証明するのである。
世界という構造は、沈澱と自発性という二重の契機を伴いつつ、意識の中心にある。
『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。