mitsuhiro yamagiwa

2024-04-01

言語論的転換

テーマ:notebook

訳者解題

 美術館にとっては、もはや保管庫としてのかつての役割は重要ではなくなり、現代美術館は一時的な特別展やパフォーマンス、レクチャーや上映会が開催される場となっている。

 こうして現代美術館や現代美術の作品は、時間の流れに抵抗するというかつての役割とは真逆に、時間の流れの中に入り、その一部となる。

 グロイスは芸術作品をそもそも不条理なものとして捉えている。かつて芸術は、聖書のエピソードやキリストの逸話を物語るためのものとして教会によって保護された。あるいは権力を誇示する富の一つとして王侯貴族に愛好されていた(このような何らかの外部の目的に役立つ芸術をグロイスは「デザイン」と捉えている)。だがフランス革命以後、かつての宮廷の富は美術館に収められ、公衆のために一般公開されるようになった。このように世間とは切り離され、美術館の中で芸術作品として観賞されるようになると、芸術作品は他の目的のためには役に立たないものとなった。だが逆説的にも、他の目的には役に立たないがゆえに、芸術作品はそれ自体価値を帯びるのである。そしてこの価値を保証し、芸術作品としての成立を支えているのが美術館を中心とする美術を取り巻く制度であると、グロイスは考える。美術館の実体とは、人間の生から引き離された芸術作品が実際的な役に立たない死んだ事物として展示される、霊廟(マウゾリウム)である。

 ダダイズムやシュルレアリストといったアヴァンギャルドや、一九六〇年代のポップアートの芸術家は、日用品を作品として美術館の中に持ち込んだ。彼らは事物を創造するのではなく、既存の物を変形し、移動し、その文脈を変更することを創作と考えた。

 そして、その場に展示する主権を持っているという点でキュレーターは芸術家に匹敵する役割を果たす。

 さらに、芸術作品と非芸術作品を区別する基準が判然としなくなるのみならず、インターネット時代には誰が芸術家であるのかも、もはや明確ではなくなる。

 インターネット時代においては、世界中の人々が自分の制作物をアクティヴに発信する。芸術家と鑑賞者の区別のみならす、余暇と労働の区別さえ曖昧になっているとグロイスは考える。

 グロイスはしばしば、現代美術作品においては、文法に従って単語を組み合わせ、文章を構築するかのように既存の事物やイメージが組み合わされていることを指摘し、現代美術においては「言語論的転換」が生じていることを論じている。グロイスにとっては、メディウムとしての言葉および言語のシステムが、芸術および社会体制の両方を論じるための共通のテーマとなっている。

 『共産主義のポストスクリプト』においてグロイスは、そもそも共産主義の理論的基盤である弁証法的唯物論は、アンチテーゼを保ちながら同時にテーゼを形成するものであり、したがって内部に矛盾を抱えた生を肯定するとする。ソヴィエトの社会主義は、矛盾を否定するのではなく、受け入れ、包摂し、結果として矛盾を存在しないかのように扱うがゆえに全体主義的なのである。

 そして、グロイスはこの点で「全体性」は「普遍性」とは対立関係にあるとする。矛盾を孕んだ「全体性」とは逆に、普遍的であることは、論理が一貫しており、一般的に該当することを意味する。『反哲学入門』(初出ドイツ語、ニ〇〇九年)では、哲学は伝統的に、ローカルな文化の限界を超え、普遍的な自明性や普遍的なメタ言説を追求してきたが、日常的な実践の中に普遍的で哲学的な価値を見出そうとする、「反哲学」の系譜が存在することを論じている。このような「反哲学」として、マルクスやニーチェ、キルケゴールやハイデッガーを論じるのだが、グロイスはこれらの「反哲学」を「レディメイド哲学」とも呼んでいる。レディメイドの芸術作品は日用品のオブジェを選択して展示することにより、それらを芸術作品へと格上げする。さらにこのような芸術行為を通して既存の芸術作品のあり方を批判する「反芸術」ともなる。グロイスは日常的な実践や経験の中に普遍的価値を見出し、かつての哲学が提示した概念の捉え直しや組み合わせ、一般的な普及を実践し、それによって既存の哲学を覆す点で、「反哲学」の実践とレディメイドの芸術実践とが平行関係にあることを見出している。

 グロイスの論考は、ポスト冷戦期から情報技術の興隆という時代の流れにわれわれが必然的に巻き込まれてゆくさまを、芸術を通して見定めているように思われる。

『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳