Ⅷ 絶対知
回顧(二)ーー「啓蒙」と「有用性」の起点
もうひとつの頂点ーー道徳的自己意識をめぐって
対象というかたちを採る境位に、道徳的意識は行為するものとしてみずからを編入するとはいえ、その対象的な場面とはほかでもなく、自己がみずからについて純粋に知ることなのである。
精神、自己、時間めぐって
くだんの知は純粋な否定性であり、ことばをかえれば「みずから分裂すること」であって、要するに意識であるからだ。この内容は、そのようにみずから区別することそれ自身にあって〈私〉である。
認識するとは精神的に意識することであり、この意識にとってそれ自体として存在するものが存在するのは、それが自己に対する存在であり、自己という存在であって、いいかえれば概念であるかぎりにおいてのことである。
全体が生成するのは、くだんの契機のさまざまが運動すること〔をつうじて〕なのである。意識のうちでは、これに対して全体が、ただしなお概念的に把握されていないものとして、諸契機に先だっている。ーー時間とは、現に存在している概念そのものであり、またこの概念は空虚な直観として意識には表象される。
前途瞥見(二)ーー自然哲学について
知にあって知られるものはたんに自身ばかりではなく、じぶん自身にとって否定的なもの、いいかえればみずからの限界もまた知られるのである。みずからの限界を知るという場合その意味するところは、自身を犠牲にしうるということである。この犠牲こそが外化し譲渡することであり、そこで精神はじぶんが精神へと生成してゆくことを、自由で偶然的なできごとという形式において呈示するいっぽう、そのさいみずからの純粋な自己は時間というかたちで自己の外部に直観され、同様にみずからの存在については空間として直観されている。
『精神現象学 下 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。