第36節 第三次予持と先制
第三次予持という概念はわたしには、デジタル・テクノロジーによって再構成された時間構造を研究するための要であるように見える。
かかる規定はつねに先制的である。つまりいかなる選択肢がありうるかを機械がすでに予科しているのである。そこでの自由とは選択を意味する。それはすなわち偶然的なものが最蓋然的なものに還元されているということにほかならない。
ブレンターノにいわせると知覚されたものは現働的であり、一つの実在と一つの心的内容との一つの対応であるが、フッサールにいわせれば心理的な現在とは一つの刹那的な瞬間ではなく一つの時間的な延長なのである。かかる延長ーーあるいはより精確には個体化ーーは多数の継起する位相からなり、それらは把持と原現前と予持の絡み合いにより媒介されている。
つまり把持は受動的であるとはいえ予持を動機づけており、そして予持は能動的でありながら個体の経験と整合的な構造に即して把持を豊かにする。
受動性と能動性の境界画定の動態こそがフッサールの超越論的現象学の基礎をなしているのである。
負債は第三次予持の一つの原始的な形式である。負債はまた把持でもある。デジタル形式の第三次把持によりわれわれすべてが負債を抱えている。
今日これが自動化社会の大きな問題であることは明らかで、そこではあらゆる可能な出逢いが計算で導き出される。
精神力(あるいは精神分析さえも)に基づくマーケティングは現行の消費者主義の形式においては中心的な役割を失いつつあるが(たとえ依然として基礎をなし続けているとしても)、それはマーケティング戦略が無意識の操作からビッグデータの分析へと移行しているからである。
第37節 無機的な有機性あるいは生態学
デジタル化の力は異なる複数の技術集合間の合間対象的な関係を効率的に創造するその能力にあり、これは時間と空間を圧縮することでさらにそれら集合を計算の下にたやすく包摂できるようにシステム化する。
それは産業化とそれがもたらす疎外に対する新たな批判を要求するのみならず、ありとあらゆる尺度のシステムに実装された第三次予持のそもそもの可能性と不可能性についての反省を要求する。第三次予持においてこそ偶然性の問いが重要となる。というのも偶然性を予料することで最適化しなければならないからである。
無機的な有機性と無機的な機械性の違いは、後者がシステムの機能不全を防止するのに必須なものとして総体的な共時化を要求するのに対して、前者は(何らかの共通の時間性を必要とするにせよ)多様性の出現を許容するところにある。
それらはもはやただの組織化された無機的なものではなくなり、むしろ再帰的に機能することでみずからの構造とパターンを産出する組織化する無機的なものになろうとしている。
一言でいえばこうである。自然を利用してし自然を逸脱せよ!彼らは自然を一種のテクノロジーとして概念化している。
自然は再帰的である。つまりそこには諸部分と全体の間の互酬性が見られる。しかし再帰性は自然現象に限らない。
テクノロジーはイデオロギーではないし、資本の批判は根本的にテクノロジーの批判なのである。
グーグルは一つの巨大な再帰的機械であり、そのユーザーのありとあらゆるデータを統合し更新し他のサービスに有用な情報に解説することでみずからを再生産している。
そこではユーザーは一つの再帰的アルゴリズムとして扱われ、また別の何らかの再帰的アルゴリズムの一部となっているのである。ドゥルーズは、シモンドンの語彙を用いて、この過程を成型ではなく変調と呼ぶ。
それはつねにバグやエラーまみれで始まるが、テクノロジーは失敗や限界に衝き動かされるものである。それは完璧さに激烈されることはない。なぜなら完璧であるというのは進歩がないということを意味しているからである。
システムと呼ばれるものは一つの自己依存的な観念性として規定されており、これは数学的に基礎づけられた何らかの有機的(再帰的で偶然的)な形式によって実現されるものと想定されている。
一般有機体あるいは可視の精神としての自然というのがシェリングの観念論的な概念化であったが、人間存在たちはいまそれを一つのサイバネティクス的なシステムとして実現する過程の中にある。
テイヤールが観察するには、道具の発明は個人に由来するかもしれないが、かかるテクノロジーの普及は惑星規模なのである。
『再帰性と偶然性』ユク・ホイ/著、原島大輔/訳より抜粋し流用。
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