17 消費社会
マルクス自身の用語でいえば、労働からの解放とは、必然〔必要〕からの解放である。これは究極的には、消費からの解放であり、したがって、ほかならぬ人間生活の条件である自然との新陳代謝からの解放を意味する。
しかし、将来のオートメーションの危険は、大いに嘆き悲しまれているような、自然的生命の機械化や人工化にあるのではない。むしろ、その人工性にもかかわらず、すべての人間的生産力が、著しく強度を増した生命過程の中に吸収され、その絶えず循環する自然的サイクルに、苦痛や努力もなく、自動的に従う点にこそ、オートメーションの危険が存在するのである。
しかもなお、〈労働する動物〉がそれを占拠し続けている限り、真の公的領域はありえず、ただ私的な活動力が公然と示されるだけである。その結果、生まれているのは、遠まわし大衆文化と呼ばれているものである。そしてその根深い災難は、不幸が普遍化したことである。
職人でもなく、活動の人でもなく、〈活動する動物〉だけが、「幸福」になることをこれまで要求してきたし、彼らだけが、死すべき人間が幸福になりうると考えてきたのである。
社会は、増大する繁殖力の豊かさによって幻惑され、終わりなき過程の円滑な作用にとらえられる。このような社会は、もはやそれ自身の空虚さを認めることができない。つまり「労働が終わった後にも持続する、なにか永続的な主体の中に、自らを固定したり、実現したりしない」生命の空虚さを認めることができない。危険はこの点にある。
原註
「人間が自己の労働、自己の生命活動の産物から疎外され、自己の類存在から疎外される直接的な帰結は人間の人間からの疎外である」。
第四章 仕事
18 世界の耐久性
ヘラクレイトスは、人間は二度と同じ流れの中に入ることはできないといったし、人間の方も絶えず変化する。それにもかかわらず、事実をいえば、人間は、同じ椅子、同じテーブルに結びつけられているのであって、それによって、その人間の同一性、すなわち、そのアイデンティティを取り戻すことができるのである。世界の物の「客観性」というのはこの事実にある。いいかえると、人間の主観性に対立しているのは、無垢の自然の荘厳な無関心ではなく、人工的世界の客観性なのである。
私たち人間は、自然が与えてくれるものから自分自身の世界の客観性を樹立し、しかも、自然から保護されるように、自然の環境の中に、その客観性を打ち立てた。このような私たち人間だけが、自然をなにか「客観的」なものとして眺めることができるのである。
消費にとっては、解体こそ本質的なものなのである。
19 物化
自分の肉体と家畜の助けを借りて生命に養分を与える〈労働する動物〉は、たしかに、すべての生きものの支配者であり主人であろう。しかし、それでもやはり、自然と地球の召使いにすぎない。
しかし、材料そのものがすでに、人間の手になる生産物である。
精神のイメージは、大変容易に、また自然に、物化に役立つ。
マルクスがいったように「過程は生産物によって消滅する」ということ、そして、生産過程が完成品というこの目的を生み出す唯一の手段であるということ、そしてこの二重の意味で最終生産物である。たしかに、労働も消費という目的のために生産する。しかし、この目的、すなわち消費される物は、仕事の作品がもつ世界的な永遠性を欠いているので、その過程の終末は、最終生産物によって決定されるというより、むしろ労働力の消耗によって決定される。
反復の衝動は、市場における増殖の需要からもくる。
ここでの問題は、どちらの場合でも、過程が繰り返されるのは、過程それ自身の外部に存在する理由からであるということである。だから、それは、労働するために食べ、逆に食べるために労働しなければならぬという、労働に固有の強制的な反復とは違うのである。
人間の手で生み出した物は、すべて、もう一度人間の手によって破壊することができるのである。
ただひとり未来の生産物についてイメージをもつ〈工作人〉だけが自由に生産し、自分の手の仕事を自由に破壊するのである。
20 手段性と〈労働する動物〉
繰り返していえば、人間の条件は、人間が条件づけられた存在であるという点である。いいかえると、人間とは、自然のものであれ、人工的なものであれ、すべてのものを自己の存在の条件にするように条件づけられた存在である。そうであるとすれば、人間は、機械を作った途端に、機械の環境に自分自身を「適合させた」のである。こうして機械は、まちがいなく私たちの存在の不可欠な条件となっている。
テクノロジーは、実際、もはや「物的力を拡大しようとする人間の意識的な努力の産物ではなく、むしろ人間の有機体に生来的な構造がますます大規模に人間の環境の中に移植される、人類の生物学的発展のように」見える。
『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。