利己的な妬みは願望という形で個人自身からあまりに多くのものを要求し、それがために、個人を阻害する。
妬みが定着すると水平化の現象となる。情熱的な時代が励ましたり引き上げたり突き落としたり、高めたり低めたりするのに反し、情熱のない反省的な時代はそれと逆のことをする。
古代においては、集団のひとりひとりはなんの意味ももっていなかった。傑出した人が集団全体を意味した。現代は数学的な平等性へと向かう傾向があって、すべての階級を通じて、これこれの人数がそろえば一個人とほぼ同等になるのである。
つまり、そろいさえすればそれを実行する勇気がでるというわけなのだ。そこで結局、かなりすぐれた天分のある人てさえ、ごくつまらない問題にもすぐに自分をほんの一員だと自覚してしまうので、どうしても反省から解放されることができず、宗教性の無限の解放を得ることができなくなる。
個人は、なにごとにかぎらず、いつでも自分が反省というもののために隷属を余儀なくされるひとつの抽象物に属していることを自覚せざるをえないのである。
社会性という、現代において偶像化されている積極的な原理こそ、人心を腐敗し退廃させるもので、だから人々は反省の奴隷となって美徳をさえ輝かしい悪徳にしてしまうのだ。
いかなる集団も水平化の抽象をくい止めることはできないだろう。集団自体が反省の関係によって水平化に仕えているからである。
「だれでもそれを知っているからといって、その価値がわたしにとってなくなることはありはしないのだ」
要するに、近代は多くの変革を通じて、すでに長らく水平化の方向に向かって進んできた。けれども、それらの変革すべてが水平化だったというわけではない。それらはすべて、それほど抽象的なものではなく、むしろ現実の具体性をもっていたからである。
水平化がほんとうに成り立ちうるためには、まず第一に、ひとつの幻影が、水平化の霊が、巨大な抽象物が、一切のものを包括しはするが実体は無であるなにものかが、ひとつの蜃気楼が作り出さなければならない。ーーこの幻影とは公衆である。
公衆こそ本来の水平化の巨匠なのである。思うに、水平化は近い現象が生じてくる場合には、なにものかによって水平化されるのだが、公衆は奇怪な無だからである。
公衆という抽象物は、同じ時代の、ある状況あるいは組織のなかに統一されることもけっしてなければ、また統一されることもけっしてできない、にもかかわらずひとつの全体的だと主張される、非現実的な諸個人から成り立っているのである。
公衆は全国民を合わせたよりも数の多い軍隊である。
『現代の批判』キルケゴール/著、桝田啓三郎/訳、柏原啓一/解説より抜粋し流用。
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