序 ルナ・プーマ
いかに他なるたぐいの存在が私たちのことを見るのか、このことが重要である。他なるたぐいの存在が私たちを見るということが、物事を変えるのだ。私たちの生死を左右することもあるような仕方で、ジャガーが私たちのことを表象するのならば、そのとき人類学は、異なる社会の人々が、いかに他なるたぐいの存在をそのようなものとして表象するようになったのかを探査するだけに、自らを限定することはできない。そのような他なるたぐいの存在との出会いによって、見ることや表象すること、そしておそらく知ることや考えることでさえも、人間の専売特許ではないという事実を認めなくらてはならなくなるだろう。
この気づきを受け入れるとき、社会や文化、そして私たちが住まう世界について私たちの抱く理解はいかに変わるのだろうか。
さらに、より重要なことであるが、私たちはもっぱら自分たちに帰するほうが心地よく感じられる物事を人間的なるものを超えた世界に見出すこともあることを踏まえると、その気づきを受け入れることで、人間学の対象ーー「人間的」なるものーーについて私たちが抱く理解はいかに変わるのだろうか。 人間的なるものを超えた領域では、私たちがかつては非常によく理解していたと考えていたり、なじみ深いものに見えてたりしていた、表象などの諸過程が突如として奇妙なものに見えてくるのである。
肉にならないために、私たちはジャガーをまなざし返さなけばならない。しかし、この出会いにおいて、私たちは変わらないままではいられない。おそらくは私たちを捕食者とは見なし、幸運にも死肉とは見なさない、あの捕食者とどうにか同列になることで、私たちは新たな何かに、すなわち新たなたぐいの〈私たち〉になるのである。
キチュア語でルナ(runa)は「人間」である。プーマ(puma)は「捕食者」あるいは「ジャガー」を意味する。
食べることは人を、森を棲み家とする多くの他なるたぐいの非人間的存在との密接な関係へと導き入れる。
すなわちこうした関わりあいが、人を森の生命へと引き込んでいく。さらに、あの森にある生命と、それとは違うものとして「あまりに人間的」だと私たちが考える世界とをもつれさせるのである。この用語でもって言わんとするのは私たち人間が創造する道徳的世界であり、それは私たちの生に浸透し、またほかのものたちの生に深く影響を及ぼしている。
実際のところ、有限性のほかにも、私たちがジャガーやそのほかの生ある諸自己ーーそれはバクテリアの、花の、菌類の、あるいは動物の諸自己であろうともーーと共有するものとは、私たちが周囲の世界を表象するあり方が、何らかの仕方で私たちの存在を構成するという事実なのである。
ここでの目的は、人間的なるものを捨ててしまうことでも、それを記述し直すことでもなく、それを問いてやることである。人間的なるものを再考しながら、この課題にあたるのに適切な人類学の再考に取り組まなければなない。今日の様々な形式の社会・文化人類学は、とりわけ人間的である属性ーー言語、文化、社会、歴史ーーを扱い、またそれらを用いて、人間を理解する道具をこしらえる。この過程において、分析対象はその分析と同形となる。その結果、人々をより広い生命の世界につないでいる数多くの道のりを、すなわち、いかにこの基礎的なつながりが、人間的であることの意味を変えるのかを理解できないのである。このために、人間的なるものの向こうに民族誌を拡張することが、これほどまでに重要となる。人間だけではなく、もしくは動物だけでもなく、いかに人間と動物が関係するのかについても民族誌的に焦点を当てることで、人間に特有なものによってとりわけ人間的なものを理解しようとするときに、私たちが閉じこめられてしまう閉包性を開くことができる。
社会科学のもっとも偉大な貢献ーー社会的にに構築された現実という分離された領域を認め、境界を設けることーーは最大の災いでもあるという基本的な信念を、私はこれらのアプローチと共有している。加えて、この問題を超えて進む道を見つけることが、今日の批判的思考が直面するもっとも重要な挑戦のひとつであると感じている。なかでも、他なるたぐいの生きものたちとの日常的な関与の周りに、理解することと関わりあうことの新たな可能性を開く何かがあるという、ダナ・ハラウェイの信念にとりわけ揺り動かされたのである。
『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳