21 手段性と〈工作人〉
目的は手段を生みだし、手段を組織する。
厳密に人間中心的な世界では、使用者である人間そのものが、目的と手段の終りなき連鎖に終止符を打つ究極目的になる。このような人間中心的な世界においてのみ、有用性そのものが有意味性の尊厳を獲得することができるのである。
もし使用者たる人間が最高の目的であり、「万物の尺度」であるならば、〈工作人〉が仕事の対象とするほとんど「価値のない材料」として扱う自然ばかりか、「価値ある」物自体も単なる手段となり、それによって、それ自体に固有の「価値」を失う。
もちろん、ここで問題になっているのは、手段それ自体ではない。
そうではなく、製作経験を一般化してしまうことこそ問題なのである。
しかし、製作は主として使用対象物を製作する。その限りで、完成された生産物は、ふたたび手段となる。また、生産過程は物を制し、それを自分の目的のために利用する。その限りで、本来、生産的で限定された製作の手段性は、存在する一切のものの無制限の手段化に転化するのである。
すなわち、人間は、その欲望と能力のゆえにに一切のものを利用したいと願い、それゆえに、結局は、万物からそれに生来的な価値を奪い去ってしまう。だから人間ではなく、「神こそ単なる使用対象物の尺度である」。
22 交換市場
要は、世界の建設者であり、物の生産物である〈工作人〉は、自分の生産物を他人の生産物と交換することによってのみ、自分にふさわしい他人との関係を見いだすことができるということである。
共同作業というのは、実際には、労働の分業の一変種にすぎず、「作業を単純な構成要素の動きに解体すること」を前提としている。
価値とは、「人間の概念作用における一つの物の所有と他の物の所有の比率の観念」であり、「常に交換における価値を意味している」のである。
23 世界の永続性と芸術作品
人間の工作物は、安定性がなければ、人間にとって信頼できる住家とはならない。
貨幣のような公分母による平等化を拒んでくる多くの対象物がある。それらの対象物は、交換市場に入る場合でも、勝手に価格がつけられるだけである。いうまでもなくそれは芸術作品である。芸術作品にふさわしい扱いというのは、もちろん、それを「使用すること」ではない。それどころか、芸術作品は、世界の中でそれにふさわしい場所を与えるために、普通の使用対象物の文脈全体から注意深く切り離しておかなければならない。同じように芸術作品は、日常生活の緊急な必要や欲求から切り離しておかなければならない。実際、芸術作品は、このような日常生活の必要や欲求から最も縁遠いのである。
たとえ、芸術の歴史的起源がもっぱら宗教的あるいは神学的性格のものであったとしても、事実は、芸術が宗教や呪術や神話から分離して、立派に存続してきたということである。
芸術作品は、そのすぐれた永続性のゆえに、すべての触知できる物の中でももっとも際立って世界的である。
芸術作品は生きているものが使用するものではない。たとえば椅子の場合なら、椅子の目的は人がそれに腰をおろすとき実現される。しかし芸術作品の場合、それを使用すれば、それ自身に固有の目的を実現するどころか、それ自身をただ破壊するだけである。
つまり、それは歳月を通して永続性を得ることができる。人間の工作物は、死すべき人間が住み、使用するものであるが、けっして絶対的ではありえない。しかし、このような人間の工作物の安定性は、芸術作品の永続性の中に表象されているのである。
芸術作品の直接の源泉は、人間の思考能力である。これらはいずれも人間の能力であって、感覚、欲望、欲求のような、動物としての人間の単なる属性ではないけれども、それらの属性と関連しており、ひるがえって、これらの属性はしばしばそれらの能力の内容をなしている。
交換が欲望の赤裸々な貪欲さを変形し、使用が欲求の必死な渇望を変形するように、思考は、感覚と結びついているが、感覚の無言で不明瞭な憂鬱を変形する。そして最後にそれらはすべて世界の中に入るのにふさわしく、物に変形され、物化される。それぞれの場合において、その本性上、世界に開かれ多弁な人間能力は、高められて、自己の内部に閉じ込められていた熱情的な激しさを世界の中に解き放つ。
芸術作品の場合、物化は単なる変形以上のものである。それは変貌であり、真実の変身であって、そこでは、あたかも、火にすべてのものを灰にするような命じる自然の進行過程が逆転し、塵でさえ燃えて炎となるかのようである。芸術作品は思考物である。
「生きた精神」が生き続けなければならないのは必ず「死んだ文字」の中においてである。そして「生きた精神」を死状態から救い出すことができるのは、死んだ文字が、それを進んで甦らせようとする一つの生命とふたたび接触するときだけである。
思考と認識は同一のものではない。芸術作品の源泉である思考は、すべての偉大な哲学の中に、変形されたり変貌したりすることなく、はっきりと示されている。これにたいし、私たちが知識を獲得し貯蔵する認識過程がはっきりと示されているのは、主に、科学である。認識は常にはっきりとした目的を追及しているが、その目的は、実践的な考えから設定される場合もあれば、ただ「無益な好奇心」から設定される場合もある。しかし、いずれにせよ、いったんこの目的が達成されると、認識過程は終わる。これにたいし、思考は、その外部に終りもなければ、目的もない。結果を生みだすことさえない。
思考の活動力は、生命そのものと同じくらい情容赦なく、また反復的なものである。
思考過程は、人間存在の全体に密着して浸透しているので、その始まりと終りは、人間の生命そのものの始まりと終りに一致する。
原注
「中世と近代の観点の根本的差異……は、われわれの場合に価値はまったく主観的ななにかであるという点にある。つまりそれは、各個人が物に与えるよう配慮するものである。アクィナスの場合には、それはある客観的なものであった」と述べている。これはある程度まで真実であるにすぎない。
『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。