mitsuhiro yamagiwa

2023-08-01

文脈

テーマ:notebook

言語を地域化する

 言語を地域化することを呼びかける際に私が想起するのが、ディペッシュ・チャクラバルティーの『ヨーロッパを地域化する』である。

 チャクラバルティーが要求するのは、普遍的だと見なされてきたヨーロッパ的な理論に、いったん囲むように線を引いた上で、問いに対して、どのような理論が南アジアあるいはほかの地域から現れる可能性があるのかを考えてみることなのである。

 文脈とは、象徴的なるものの結果なのである。すなわち、象徴的なるものがなければ、私たちは自らが理解するような言語的、社会的、文化的あるいは歴史的な文脈を持つことはない。しかしながら、この種の文脈は私たちにとっての現実を全的に生み出し、それを囲む線を引くことはない。なぜならば、私たちはまた象徴的なるものを超えた世界に生きているからである。

 地域化は、象徴的な領域や特性、分析が常により広い記号過程の領域によって囲まれ、その内側にぴったりと収められていることを思い出させるものとして有用な比喩であると考えている。

 私たちは表象と言語をひとつのものであると考えていて、この合成が私たちの用いる理論にも伝わっているからである。私たちはまず、全ての表象は人間的な何かであり、ゆえにあらゆる表象には言語のような特性があると見なすことによって、このとりわけ人間的な傾向を普遍化している。特殊なものとして限定されるべきものが、代わりに私たちが表象について抱く想定の岩盤となってしまっている。

 象徴による表象は、言語の中にもっとも明瞭に表れるが、規約的で「恣意的」でほかの同じような諸々の象徴からなる体系の中に埋めこまれている。

 単語は体系的に関係づけられているほかの単語からなるより大きな文脈によってのみ意味を獲得することが知られているように、社会的な事実はほかの事実からなる文脈からはずれたところでは理解できない、というのが人類学の公理である。

 しかしながら、このようにして理解された文脈が、人間的な規約による象徴的指示の特性であり、私たちをとりわけ人間的にする言語的、文化、社会的な現実を創造する。象徴的なるものによって完全に囲まれることはないにもかかわらず記号過程的である、人間ー動物関係などの領域に、文脈は完全にはあてはまらない。

 要するに、複合的全体は、また開かれた全体なのであるーー

 さらに、開かれた全体は、人間的なるもののかなたにまで到達するーーここに、この人間的なるものを超えた人類学が由来する。

 ヴィヴェイロス・デ・カストロが「パースペクティヴは表象ではないというのは、表象が精神あるいは魂の性質だからであり、それに対して観点は身体の中に位置づけられる」と記すとき、彼は身体(およびその自然)に着眼することによって、表象によって提起される悩ましい問題を避けて通ることができると踏んでいる。

 ラトゥールの「自然-文化」の中のハイフンは、この分析が全ての尺度においてはからずも発生させる小さなデカルトのいわゆる脳の中の松果体である。人間的なるものを超えた人類学が見つけ出そうとするのは、この混合による分析論を超えて進む道のりである。

 人間の精神と残りの世界のあいだの区分けを消すこと、すなわち、代替として精神と物質のあいだの対称的な混合に向けて取り組むことは、ただこの隙間を再びほかの場所に出現させるのを促すだけである。

 すなわち、この二元論を克服するもっとも生産的な方法は、表象(転じて、究極目的、意図、「関連性」、自己であること)を捨て去ることや、あるいは人間的な種類の表象を別のところに投影することではなくて、私たちが表象であるはずだと受け取るものとはいったい何であるのかを根本的に考え直してみることである。

 このことは、この世界で誰が表象するのかを、それに加えて、表象として見なされるのはいったい何なのかを再考することを含む。さらには異なる種類の表象がいかに作用するのか、そしてこのような異なる表象が様々なかたちで、いかに相互作用するのかを理解するのを理解することを含む。内面的なら人間の精神にとらわれているのを超えて、言語を使う能力といった、とりわけ人間的な傾向を超えて、さらにそのような傾向が生み出すとりわけ人間的な関心事を超え出ていくことで、記号過程が帯びるようになるのはいかなる生命だろうか。人間的なるものを超えた人類学が促しているのは、人間的なるものを超えて、記号がいかなるものであるのかを探査することである。

 私たちは永遠に言語的および文化的に媒介された考え方の内側にとらわれたままなのだろうか。

 より完全なる表象の理解は、例外的なものとして人間的なたぐいの記号過程が生み出され、より広く分布するほかの表象の様態と耐えず影響を及ぼしあうその仕方を説明するものであり、そのことは、例の頑強な二元論から離れて、より生産的であり、分析的にもより強健な方法を示すことになる。

 現在において未来を表象することによって未来のために事をなすのは、私たち人間だけではない。全ての生ある諸自己が、何らかのかたちでこのことをする。表象、目的、未来は世界の中にあるーーしかもそれらは、私たちが人間の精神として限定する世界のその部分だけにあるのではない。それゆえに、人間的なるものを超えて広がる、生ある世界の中に、行為主体性があるというのが適切てある。

 人間も非人間も同じように表象されうる(あるいは、これらの表象をひとつにできる)こと、そして、これらがまさしく人間に似た語りにあずかっているという事実から、人間と非人間(そのようなアプローチにはモノが含まれている)が共有するいくつかの総称的な傾向へと行為主体性を還元するとき、思考する方は区別されなくなってしまう。そのために、とりわけ人間的な思考の方法が(象徴による表象に基づいて)あらゆるものに分別なくあてはめられてしまうので、思考することはつまらないものになってしまう。

 挑戦すべきは、私たちがその特性をとても自然なものと感じる記号の恣意性を異化することである。

 私たちが取り扱う全ての記号が象徴なのではないし、非象徴的な記号が言語に似た境界づけられた象徴的な文脈から逃れ出る道があるということである。

 記号が排他的に人間的な事態であることはない。全ての生ある存在が記号を用いる。私たち人間は、それゆえ多数の記号的生命に慣れ親しんでいる。

 私たち人間が非人間的存在に対して持つ関係に焦点を当てる人類学は、人間的なるものを超え出る一歩を踏み出すよう私たちに迫っている。そのプロセスの中で、私たちが人間の条件であると思っていることーーすなわち私たちの自然は私たちがつくり上げた「非自然的な」世界に侵って生きることであるという逆説的かつ「地域化された」事実ーーは少しだけ奇妙な姿をとるようになる。このことを受け止める方法を習得することが、人間的なるものを超えた人類学がまさに目指しているところである。

『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳