Ⅳ 表現としての身体と言葉
〔言語は思惟を予想するのではなく、それを成就する〕
要するにいかなる言語もみずから自己を告げ知らせ、その意味を聴衆者の精神のなかに注ぎ入れるのである。
文学作品の意味は単語の普通の意味から成り立つのではなく、むしろ作品の意味こそ単語の意味の変化に寄与しているのである。
〔言葉における思惟〕
まず第一に、話し手における思惟は表象ではないということ、つまり、はっきりと対象や関係を措定することではないということを、認めなくてはならない。話し手は語るに先だって考えるのではない。話す間に考えるのですらない。語るということが考えることなのである。
記憶というものが過去に関する構成的意識ではなくて、現在の含蓄から出発して時間を再び開こうとする努力であり、また身体というものが、「さまざまな態度をとり」、こうして擬似現在をつくりだすわれわれの恒久的な手段であって、したがってわれわれが空間のみならず時間とも交わる手段である場合に初めて、記憶における身体の役割が理解されるのである。
〔思惟は表現である〕
言葉は正真正銘の身振りである。
私が最初に交信する相手は「表象」や思想ではなく、語る主体であり、ある一定のありようであり、彼がめざす「世界」である。
われわれがこの起源にさかのぼり、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しないかぎり、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描きださない限り、われわれの人間考察はいつまでも表面的なものにとどまるであろう。
〔身振りの了解〕
身振りは私の前に一つの問いとして現われ、私に世界の若干の感覚的な点を示して、この点をたどって身振りに追いつくようにと私を誘なうのである。私による他人の確認と他人による私の確認とが同時におこなわれる。
意識と意識との間の交信は、彼らの経験の共通の意味に基づいているのではなく、むしろ逆にこの意味をも基礎づけているのである。私が光景に身を委ねる運動は、根元的なものの、他の作用に還元できないものと、認められなくてはならない。意味の定義や知的な仕上げに先だつ一種の盲目的な認知において、私は光景に加わるのである。
私が「物」を知覚するのは私の身体によってであるが、それと同様に、私が他人を了解するのも私の身体によってである。こうして「了解された」身振りの意味は、身振りの背後にあるのではない。それはこの身振りが描きだすところの、そして私が引き継いで自分のものとなすところの、世界の構造と一つである。意味は身振りのそのものの上に展開する。
『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。