フランツ・ローゼンツヴァイクーーある近代ユダヤ思想
2 別の秩序を求めて
宗教の秩序は、ヘーゲルの仕事によって封印された全体性の哲学の終焉を記すものなのです。
3 新しい思想の諸範疇
死については、還元不能な仕方で、各自が己が死をみずから死ぬがゆえに、全体性を死に対していかなる意味も与えることがありません。還元から還元不能なものへーーそれが新しい思想の手続きなのです。
人間は独りで死ぬ。人間とは自己を起点として自己措定し、自己省察する自己性である。
神と世界との関係は、常に過ぎ去ったものとして成就される。創造は過去の次元を開き、それを維持するのであって、過去が単に創造に宿るのではありません。
4 ユダヤ教とキリスト教
宗教的共同体による〈永遠〉の予期が、諸々の哲学的概念の形成にとって有効な出発点と化すのは、この形成が何らかの教義論ではなく、予期というこの経験に立脚している限りにおいてなのです。
体験の布置ならびに、共同的存在という社会的形式でのその表現を尊重することで、考察は、デカルトにおける単なる自然のように、還元不能なものとして、後の一切の思考操作の条件となるような根源的な構造ないし意味をを引き出そうとします。こうしてユダヤ教とキリスト教は、その内面的な意味と「社会学的な」現れの観点から考察されることで、第一義的な「構造」としての意味を得るのに至るのです。
ユダヤ教は、時間の純然たる否定によって時間と〈永遠〉との接合を成就するのですが、その際、ユダヤ教は大胆にも時間の順序を逆転させてしまいます。
歴史には無関心である限りでの時間性についての還元不能な経験、果してそれを、真の時間の秘密を握っているとされる何らかの「客観的」審級のもとで正当化する必要があるでしょうか。時々の律動を介して、時間のなかで生きられる、それも共同的に生きられる永遠は、この生の社会的形式を通じ表現され、主体性とその神秘主義とその幻覚を超越するのですが、そうした永遠はローゼンツヴィクにとっては、数学的時間の諸瞬間についての経験と同じくくらい根源的な経験であったのです。
世界に福音を伝えようとして、宣教に努めるキリスト教のほうは、このような無色の信にとどまるはできず、必ずや信仰箇条と教義をもたらすことになるのである。
ユダヤ教が「終末から始める」のに対して、キリスト教は逆に、世界の暦法を真正面に受け止めます。キリスト教はつねに端緒にあるのです。キリスト教の永遠は自閉したものではなく、時間と拡がりを同じくしています。
〈受肉〉から〈臨在〉へと向かう、止まることのできない不可避的な拡張として、キリスト教は横断して、異教的社会をキリスト教社会に変じ、数々の制度と人格を魅力すると共に数々の文化と国家を創設したのでした。
5 真理と立証
抽象化によって、人間的なものから〈真理〉それ自体を引き出すことなどできないのです。究極的な統一へと導くのは時間であり、人間の努力であり、自分のいるまさにその場所で各人が試みる立証の試練なのです。
ところで、所有格が人間の真理に属しており、真理がつねに私の真理であるのは、真理が私を巻き込むからであり、私が私の召命からは逃れられないからです。真理は人間のためにあり、それは人格的です。
真理とは、時間の終末での全面的真理を時間のなかで証示しなければならないという忌避不能な責務なのです。
真理は私の真理である、と言うことはつまり、真理は観照に還元されるものではなく、生が真理に課する試練に、生による真理の立証に帰着するとい意味でありましょう。
真理は人間のためにある。キリスト教が世界に浸透し、ユダヤ教徒が自己に忠実な者でありつづけるその限りにおいて、そうなのです。このような真理論を、ローゼンツヴィクらはメシア的「認識論」と呼んだのでした。
6 永遠の民
永遠は肯定的な意味で一神教である。つまり、ある共同体の制度を通じて明らかになるような、もっとも高度なものへの固着であるのですが、ーーこうしたことすべてが、近代ユダヤ教思想に、その伝承の古来の数々の主題を見いださせたのです。たとえば、忌避不能な責任という主題。
イスラエルはありとあらゆる解体と追放にも生き延びる能力を堅持しているーーおそらくはそれはまたイスラエルの永遠なのでしょう。ローゼンツヴィクが示したことですが、世界のさまざまな道にイスラエルがいるということ、それは父なる神のもとでのイスラエルの現存のひとつの形式です。
『外の主体』エマニュエル・レヴィナス/著、合田正人/訳