公的な表現には限界がある
大人にとって話し言葉とは、自分自身の言葉を、公の場で用いることの問題になった。
子供たちを一つの階級として、大人の階級からは切り離すことになった。
自然な表現は公的領域の外にある
「世話」とは通常、絶えざる身体的な懲罰だと解釈されていた。
子供を保護することを正当とする理由は、もし人が本質的に無防備であるならば、人は生まれ、境遇、あるいは両親の性癖といった附随的な事情を越えて養育と快適さへの権利をもつというものである。こうして、家族関係は拡大された。
まさに子供の自然な弱さが、こうした弱さにつけこむことが可能で、子供を「取るに足らないもの」とした両親に始まる社会に対して、子供に権利を与えたのである。
自然な共感は「欲求」に関わるものだが、これらの欲求を感じている人々の真の要求を上回っていない「欲求」に関わっている。
人が自然に行動するときには単純に行動するものだと信じることが、論理的に必然となった。
弱者を養育する自然の義務と全人類の間をつなぐ精神的欲望の概念は、ある階級の人々が耐えるべき、あるいは別の階級の人々に加えるべき苦痛に自然の制限を加えたのだった。
「社交のたしなみはガアガアと騒々しい楽しいお喋りから成り立っている。満ち足りたげっぷが談話のもっとも高度な形式となる」
「公」と「私」は社会をつくる
一つの分子のようなものである
パブリックな表現様式とプライヴェイトな表現様式は、正反対というよりは選択の対象である。パブリックな場所では、社会秩序の問題は記号の創造によって対処された。
公的なものは人間が創造したものであり、私的なものは人間の条件であった。
このバランスはわれわれがいま非個人性と呼ぶものによって構成されており、「個人の性格がもつ偶然的な性質」は、パブリックな場でもプライヴェイトな場においても社交の原理にはならなかった。そして、そこから第二の構造が出てくる。つまり、公的なしきたりの唯一の制限は、自然な共感という観点から想像できるような制限である。
自然の秩序の原理は中庸の原理である。社会のしきたりは、それが苦悩や苦痛といった行き過ぎを生みだしたときにのみ制限を受けたのである。
分子は分裂した
哲学の進歩や普及から現代の世代が得ている主な利点の一つは、不必要な恐怖からの解放と、にせの警報から免れていることである。常のものであれ偶然のものである、かつての無知な時代に大変な驚きを拡げた異常な外見は、探究心によって守られている者の気晴らしとなるものではない。『にせの警報』
政治の言語は私的な生活からは隔たっていた。
自由は自然な共感という枠組みの一部ではなく、公の秩序としてのしきたりの観念に対立した。それは何だったのか?
もし自由を求める叫びによって分子構造が分裂したとすれば、公的生活への真の挑戦は、自由ではなく、「象徴」の力としての個人の個性であった。
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳