mitsuhiro yamagiwa

2023-07-04

失われた時間

テーマ:notebook

 なぜ、もっとも人口稠密なアジア諸国の工業化が二〇世紀の終わりまで遅れ、それ以前には起こらなかったのか。

 奇妙なことに、この問いが地球温暖化の歴史を説明するなかで明確にもちだされることはほとんどない。しかし、こういった〔問われずじまいの〕歴史はしばしば、なぜ非西洋世界が炭素経済に参入するのが遅かったのかという問いに暗黙の答えをあたえてくれる。

 この観点からすれば、工業化は、技術が西洋から外に向かって伝播する過程を通して起こるということになる。

 歴史家のサンジャイ・スブラフマニヤムが久しく議論してきたように、近代性とは西洋から世界の他地域にひろまった「ウィルス」ではない。それはむしろ、世界のことなる地域でほとんど同時に生じ、さまざまな反復をともなった、「グローバルに連動した現象」だったのだ。

 この多種多様性は、化石燃料の使用にもあてはまるものだ。それは非西洋世界においてながい歴史をもっており、いまではほとんど忘れられてしまったものの、その歴史は産業革命に至るまでの期間とその直後に勃興した〔複数の〕近代についていくつかの新たな洞察をあたえてくれる。

 炭素経済〔の存続〕は、その本性からして、「まねされないことにかかっていた」。

 炭素経済のこの化身がインドで衰退したのは、かれらに勤勉さや巧妙さ、ないしは進取の気性あふれる関心が欠如していたからではなかった。もし地元の製造業者たちがよその土地の競争相手がごく普通に享受していたような国家による支援をうけさえしていたならば、事態はまったくことなった展開を見せていたのかもしれない。

 人種にかかわることでほぼつねにあてはまる真実として、ひとが純粋さを求めるのに必死になればなるほど、かえってまぜものや雑種に出くわしてしまうということがある。

 国家の介入は、貿易と産業の振興にとってつねに不可欠だったのだ。アジアにおいて西洋の資本が土着の商業を打ち負かすことができる条件を整えたのは軍事的支配だった。

 すなわち、もし脱植民地化と(日本をふくむ)帝国の解体がより早く、たとえば第一次世界大戦後に生じていたなら、なにが起きていたのだろうか。アジア大陸諸国の経済成長はもっと早い段階で加速していたのだろうか。

 ひとりあたりの二酸化炭素排出量にかんする公平性についての議論は、ある意味で、失われた時間についての議論なのだ。

 世界の貧しい国々は怠惰だったから、あるいは自発性がなかったから貧しいのではないということ、かれらの貧困はそれ自体、炭素経済によって生みだされた不平等の結果であるということ、そしてそれは、貧困国を富と権力のどちらにおいてもつねに確実に不利な状況に留めておくために無慈悲な権力が設けた制度によってもたらされた結果であるということ。

 わたしたちの生活や選択は、引き返すあてもないままわたしたちを自己破壊へ向かわせるようにみえる歴史の型にはめこまれているのだ。

「資金は短期的な利益に向かって流れる」と地質学者のデヴィッド・アーチャーは書いている。「そして、統制されていない共有資源を過剰に搾取する方向へと流れていく。こうした傾向は、さながらギリシア悲劇の英雄を避けがたい破滅へと導く、運命の見えざる手のようだ」。

 なるほどこれが、人類が現在陥っている〈錯乱〉の本質なのだ。

『大いなる錯乱 気候変動と〈思考しえぬもの〉』アミタヴ・ゴーシュ/著、三原 芳秋・井沼 香保里/訳