Ⅶ 宗教
C 啓示宗教
概念とはじぶん自身が外化するもの、いいかえれば直観された必然性が生成することである。同様に概念はまた、必然性のうちでみずからのもとに止まり、必然性を知り、それを概念的に把握するものである。
絶対的宗教における「啓示」をめぐって
意識が直接的に対象のうちで自身を知るということ、いいかたをかえれば、意識は対象のなかでじぶんにとって顕わであるということだ。意識そのものはじぶんにとって、ひたすら自己自身の確信にあってのみ顕わである。
自己とは純粋な概念であり、純粋な思考なのである。
精神とは自己意識そのものであるからだ。
啓示宗教における純粋思考と、区別なき区別
対自的存在は実在から排除されながらも、その対自的存在は、実在が自己自身を知ることなのだ。実在はことばであり〔神はロゴスであり〕、それが言表されるときに言表する者を外化し、その者を空洞化して、置きざりにする。ことばはいっぽう同様にただちに聴きとられ、かくてただそのようにじぶん自身を聴きとることだけが、ことばが現に存在することである。
啓示宗教におけふ表象の展開(六)ーー総括、神の「受胎」とその意味
悪とは一般に自身のうちに存在する対自的存在であって、善とは自己を欠いた単純なもののこととなる。双方がそれぞれの概念にしたがって言表されるときに、同時にあきらかとなるのはふたつのものの統一なのである。
一方が、あるいは他方が真理であるのではない。真理となるのは、かえってほかでもなく両者のあいだの運動である。すなわち、単純に「おなじ」であるというのは抽象であり、かくてまた絶対的な「区別」であって、この絶対的区別もしかしそれ自体が区別であるものとしては、じぶん自身から区別されており、したがって自己自身とひとしいこととなる、そのように展開する運動なのである。
つまり、神的な実在と自然一般、とりわけ人間的な自然とのあいだの同一性にかんして成立するのだ。
無とは絶対的な抽象であり、したがって純粋な思考、あるいは自身のうちに存在することであって、かくて無がその契機として、みずからに対立するものを精神的な統一に抗してともなう場合には、無とは悪である。
啓示宗教たるキリスト教の信仰箇条(一)ーー「洗礼」について
じぶんのうちへ立ちかえることの根拠とはつまり、自然がすでにそれ自体として自身へと立ちかえっているから、というものにほかならない。悪のゆえに人間は、自身のうちへ立ちかえるのを余儀なくされるとはいえ、悪とはそれ自身みずからのうちへと立ちかえることなのである。
『精神現象学 下 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。