人々は自由時間に旅行をし、スポーツやエクササイズをして働く。彼らは本を読まない。彼らはフェイスブック、ツイッターや他のソーシャル・メディアのために書く。彼らは美術作品を見るのではなく、その代わりに写真や映画ビデオを撮り、それらを親戚や友人たちに送る。
たしかにこれらのメディアを通して思考の運動もしくは思索の状態を表象することはできない。伝統的な芸術をとおしてさえもこの運動を表象することはできない。現にロダンの有名な銅像《考える人》はジムでのワークアウト後に休息する男を表わしている。思考の運動は見えない。したがって視覚的に伝達しうる情報を志向する現代文化によっては、それは表象されえない。だから現代のメディア環境の内では理想が活動を求めることは極めて適切だといえよう。
たしかに、どの批判理論も単に知識を提供するもの(インフォーマティヴ)ではなく、変化させるもの(トランスフォーマティヴ)でもある。
コミュニケーションの行為それ自体は参加者を変化させない。
理論は、われわれは元来有限であり、生身の身体であると信じることをわれわれに望むだけでなく、われわれがこの信念を示すことを要求する。理論の枠組みのもとでは生きるだけでは十分ではない。人は生きていることを示し、生存していることを遂行/実演しなければならない。
そして理論はわれわれに自分自身または自分自身の理性の証拠を信じないように教える。
結局、理論はまた理論そのものを信用していない。テオドール・アドルノが言ったように、全体は間違いであり、間違いの中に真実の生はない。
芸術家は必ずしも応答者の立場をとるとは限らない。彼らは変化の要請を遂行するのではなく、それに参加するかもしれない。活動的になる代わりに、芸術家たちは他の人々を活性化させようとすることができる。
プロパガンダ芸術はとりわけ無益なわけではない。それは単に、それが宣伝する理論の成功と失敗を共有しているだけである。
マルクスとニーチェの著作におけるその始まりから、批判理論は人間を有限で、物質的な身体であり、永遠あるいは形而上学的なものに対して存在論的には到達不可能とみなしてきた。
神的暴力はなんの新しい秩序も打ち立てることなく破壊するだけである。
近代および今日では、われわれは人間を動物と機械の間に位置付ける傾向にある。この新たな秩序のもとでは機械であるよりも動物である方がましだと思われている。
マレーヴィチとモンドリアンからソル・ルウィットとドナルド・ジャッドに至るラディカルなアヴァンギャルドたちは、機械のようなプログラムに従って自分たちの芸術を実践した。
しかしながら芸術のプログラムと機械は目的思考ではない。それらは明確なゴールを持たない。それらは単に進み続ける。同時に、これらのプログラムはその完全性を失うことなくいつでも中断される可能性を含んでいる。
このようにして芸術行為は無限かつ反復可能に続けることができる。あるいは無限もしくは反復可能となる。ここでは時間の欠如は時間の過剰、実際のところ時間の無限の過剰へと変換される。
いわゆる現実を美学化する操作が、まさに歴史的行為の目的論的解釈から非目的論的解釈への転換によって引き起こされることは特徴的である。
それらはいつでも中断させ、復活させることができる。成功の基準がないので、こうして失敗は不可能となる。
芸術は世界を変え、われわれを自由にする。しかしわれわれを歴史から自由にすることによって、歴史から生を自由にすることによって、芸術はまさにそうするのである。
いまやわれわれは生を解放するために世界を変えることを欲し、ますます理性よりも生が人間の存在の根本的な条件とみなされている。
これらの諸制度の権力からわれわれ自身を解放することは、理性の指針に基づいた諸制度の普遍的な要求を拒絶することを意味する。
理論は単にあれこれの世界の側面を変えるのではなく、世界全体を変えることをわれわれに要求する。
確かに、社会的なものは常にすでにそこにあると考えるべきではない。社会は平等と類似の領域である。
しかしながらアヴァンギャルドの時代以降、芸術は議論の主題であり真理の基準から自由であるだけでなく、普遍的で非特殊的で非生産的で、いかなる成功の基準からも自由な一般的にアクセスできる活動となった。
われわれは国境を超越する普遍的な民主主義の枠組みを持たず、決してそのような民主主義を過去に持たなかった。だからわれわれには真に普遍的で平等な民主主義はどのようなものかはわからない。さらに民主主義は伝統的にマジョリティのルールとして理解されている。
現代美術がしばしば、あまりにエリート主義であり十分に社会的でないとして批判されるに対し、実際はその逆が事実である。芸術と芸術家は超社会的である。そして、ガブリエル・タルドが正しくも述べているように、真に超社会的になるには社会から自分自身を孤立させなければならない。
『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳