第九章 十九世紀の公的人間
個性(パーソナリティ)が公的領域に入り込んだとき、公的な人間のアイデンティティは二つに分裂した。少数の人々は公の場で能動的に自己表現を続け、旧制度を方向づけた俳優としての人間のイメージを持ちつづけた。
備えさえできれば、とりわけ公の場では沈黙するように自分を訓練できれば、個人として自分では起こせないものごとが自分の感情に生じることであろう。
内在性と内在する個性の影響についてすでに述べたあらゆることから、公的人間は自分自身で表現の目撃者としてのほうが気楽だと感じるらしいことが容易に見てとれる。
そこで、公的生活への信念が純然として残存していることは必要な存続であり、観客が観察すべき領域をもつための手段であるように思えるかもしれない。個性と結びついたとき、それ以上のものを生みだしたのである。
社交的な相互作用のなかでは、彼の感情は混乱し、不安定なものになった。彼はみずから受動的になることで、自分が刺激を受けてよりいっそう感じることを期待したのだった。
沈黙したまま、人生が通り過ぎていくのを見守るとき、人はついに自由になれた。
公的生活のこの生き残りが、皮肉にも、個性と社交性を互いに敵対する力とすることを可能にしたのだった。
彼らは無言のうちに、お互いに孤立した防御の壁をつくって行動し、街で通り過ぎてゆく生活を見つめながら、空想や白昼夢によって自分を解放している。
そしてここに、公の場で見えてはいながら、人と人とは孤立している近代の風景の芽生えがある。
公に演じる芸術における表現は不可避的に個性の複雑な問題を提起することになる。
俳優
演ずる芸術はつねにテキストについてこの問題をもっているーーつまり、表記の言語が表現の言語としてどのくらい十分であるかの度合いである。演者の個性の存在はここにかかっている。
しかし、この表記の力には限界がある。
パフォーマンスの表記がもつ間接的な性質、つまり、音符、形態、台詞はまた別の種類の活動への指針に過ぎないという事実のために、演者は決して自分を単に「鏡」であるとか、忠実な実行者であるとかみなすことはできないのである。
パガニーニは演ずることそのものを目的と化したのだった。彼の偉大さは、じつは、聴衆に音楽のテキストを忘れさせたことであった。
表現豊かになり、非凡な才能をもつことーーそれが個性が公の領域に入る方式であった。
演者が観客の上に立つようになるにつれて、演者は自分の演じるテキストを超越するようになったのだった。
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳