根本的な分離の感覚
その森が私たちを通じてそのありようを思考するのに任せるならば、私たち自身もまた何らかの仕方でいかにそのような編み目に編みこまれているのかを、そして、この事実と一緒にいかに概念的作業をすることになるのかを、見定めることができよう。このことが、私をこの場所まで導いた。しかしまた、象徴的なるものを超えて広がるより広大な記号の編み目から私が切り離されていると感じるようなった機会に注意を向けることで、習得してきたものもある。
ーー象徴的思考は、そこから出現するより広い記号過程から飛躍しなければならず、その過程において私たちを取り囲む世界から私たちを切り離すという傾向ーーを示していると考えるからである。それで、この経験が私たちに教えてくれるものはまたは象徴的思考が連続しており、そこから出現する世界にある別のたぐいの思考に対する関係を理解する方法に関連している。
私の世界認識と私の周りの人たちのそれとのあいだにある食い違いが、世界とそこに住まう人たちから私を切り離したのである。私がとり残されたところにあったのは、未来の危険を考えることを制御できずにぐるぐると回り続けてしまう私自身の思考だった。その後さらに厄介なことが起きた。私の考えが周囲の人たちとの継ぎ目を失っていると感じるやいなや、そこにあると私がいつも信頼してきたものに対するつながりを疑い始めたのである。
自分の経験が、ほかの人たちが言う「起こったこと」とは一致しないと感じていて、そのため、世界の共通のイメージを、すなわち、世界がいかに動いているのかについての想定を共有する人は誰もいないと感じているのである。
すなわち、象徴的思考が非常に多くの仮想世界を生み出すことになるという事実である。私たちの身体は、全ての生命と同様、記号過程の産物である。
私たちの感覚的経験は、もっとも基礎的で細胞的な、そして新陳代謝のプロセスでさえも、表象的なーー必ずしも象徴的でないのだけれどもーー関係によって媒介されている。しかし暴走する象徴的思考は、全てのものから区別されたものとしての「私たち自身」を私たちに経験させる。つまり、私たちの社会的な文脈、私たちが生きている環境、さらには私たちの欲望や夢でさえも。
つまり、我思うゆえに我であることを疑う。
このことは、どのようにして可能になるのか。
あのフウキンチョウに焦点があったことが私に教えてくれたことは、この濃密な生態学に身を浸すことが、すぐれて人間的であるものを超えたより広大な記号過程の領域、つまり、私たち全てがーー普通ーー置かれている領域を増幅し、目に見えるものにするやり方なのである。あのフウキンチョウを見ることがより広いもののうちにあの根本的な分離の情態を位置づけることになったので、私は正気を取り戻したのである。そのことが人間的なるものを「超えた」より広い世界に私を位置づけ直すことになった。
人間的なるものを超えた人類学は、このようなつながりの重要性を把握することに努める一方で、なぜ私たち人間がそれらを見失う傾向にあるのかを理解することも視野に入れている。
『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳