外部にある物質的なものの可塑性が、〈意味がある無意味〉の作用圏内つまり思考に、意味がなく無意味に破壊的影響を与えるのである。マラブーにおいては、物質の存在が〈意味がない無意味〉なのであり、それが〈意味がある無意味〉にとって下部構造である、という理論構築がなされている。
「非意味的切断」の「非意味」が、〈意味がない無意味〉である。意味がなく無意味な切断によって、無限の多義性から抜け出すーーこれはすなわち、意味の有限化である。
事物を無限に多義化させることが、思考の本性である。思考とは、意味および関係の極だ。その対極に、「思考の他者」としての身体がある。身体とは、無意味および無関係の極だ。
トートロジカルな身体=形態が、閉じられた無意味、〈意味がない無意味〉だ。
不気味でないものは、ただひたすら現実自体が現実を支えるという現実性のトートロジーによって存在する。
相対主義を超えることは、解釈の増殖を止めることだ。無限の多義性を止めることだ。〈意味がない無意味〉の消去だ。
真理がなくなると解釈がなくなる。いまや争いは、複数の事実=世界のあいだで展開される。ポスト・トゥルースとは、真理がもはやわからなくなった状況ではない。「真理がわからないからその周りで諸解釈が増殖するという状況」全体の終わりなのである。そうなると、他者はすべて、別世界の住人である。まさしくこの意味において、あらゆる他者は何をするかわからない者なのである私にとっての事実の端的さの外部から、別の事実の別の端的さによって、異質なる自明性によって、意味がなく無意味に私に接近してくる他者。
ポスト・トウルースとは、〈意味がない無意味〉の側への移行である。
世界と世界の差異をまたいだ歓待が、相対主義批判の本質である。裏切りの可能性に耐えながら歓待すること、そのことが、儀礼の可塑性に一致している(「アンチ・エビデンス」)。
真理による裏張りのない、ただたんに共にいるだけだという事実を組織すること、共存の時空を〈意味がない無意味〉にまで切り詰めること、それが儀礼である。
現実的な世界を生きるとは、潜在的に無限な多義性の思考から、有限な意味を身体によって非意味的に切り取ることーーそして、行為するということだ。行為の本質が、〈意味がない無意味〉なのである。
人間とは自然のなかで特権的に剰余を持っている存在です(人間存在自体がファリックだということになる)。精神分析的にいえばエロス的剰余を持つもののことであり、そこには欲望の次元がある。そのような次元を特権的に持つ人間が、他のそれ以外の通常のものと相関的な関係をなすという構図が、相関主義なのです。
例外vs. 通常という構図から外れること。
世界内的な確率の偶然性は、この世界という特殊な枠によって限定された偶然性である。その限定された偶然性に、その限定自体の絶対的偶然性が「反響」している。
何の理由もない、たんにそういうことになっている、世界という枠。それは、チェスや将棋のルールのようなものだ。
儀礼、形ばかりのこと、というのは、たとえそれが諸文明それぞれにおける人間らしさの極致と思われるにしても、それは実のところ、形ばかりでない=意味ある事ども(理由を云々できる事ども)の喧騒から分離可能な、最も非人間的な、物質的な次元の所在を示しているのである。
神なき時代における、超越性に向けられるのではない祈りや舞踏。内在的なる歩行。理由の空間のただなかで、それ以上でも以下でもない物質に – なるポーズ、運動。
さらに言えば、数理 – 物理的に規定される物質の秩序と、複数的に並立する解釈の秩序との区別は、このように儀礼を存在論的に取り扱うことによって揺らぎ始めるだろう。ひとつの人文的解釈のシステム、根源的にはドグマ的に成り立っていると言うしかないシステムは、非理由的なる儀礼のシステムであり、それは、ひとつの世界の構築に相当すると言えるだろうからだ。つまり、ある一貫性で展開される人文的解釈は、いわば〈非物質的な物質〉の秩序を実現している。数理 – 物理的に物質であると認められるところの物質と、たとえば、ある晩餐のシステムにおける皿の配置のスカルムという物質を、同一平面上に置くこと。
社交性の存在論化、それは、世界はハッテン場であるかのようだと思弁することである。いわば「存在論的ハッテン場」におけるものごとの複数性。分離した万物のリズム、分身化、その快楽。
解釈の仮固定は、さらなる解釈を予定してなされる。
オブジェクトの区別が必然的でないのは、私たちの有限性ゆえのことではない。区別ということがそもそも絶対的に偶然的であると考えるのである。区別の事実性を絶対化するということだ。オブジェクトは、根本的な理由なしで、他から区別されている。
新たなオブジェクトが発見されるということは、解釈の一種なのではない。関係 – 構築に捕らえられることなく、新たにたんなる箇所が、新たな思考停止の機会として発見されるのである。
精神分析批判を通してドゥルーズ&ガタリが提案する「分裂分析」という方法は、ある対象を求めることが、他の対象や動作とどのように無解釈的に並立しているかをたんに外在的に観察し・記述するだけのことであるだろう。欲望機械を観察し・記述するだけの作業こそは、しかし、意味づけ=解釈よりもずっと困難で、注意深さを要求されることである。分裂分析では、解釈という〈複雑な単純化〉を遮断して、〈単純なことの複雑な並立〉にミクロな観察を行うよう促していると考えられる。
機械的=無解釈的にそうしているだけというのは、何かをすることによって自己と他人との共同性にいかなる効果が生じるのかを先読みしての自己統御をしないということである。欲望機械は、たんに一方向的にその力を周囲へと放散するものだ。
解釈的=人権的=人文学的という等式が示唆されているーーこの等式の外部に向けて、言葉にならない言葉を与えなければならないのだ。一般的な欲望論として言えば、私たちの誰しもが、無解釈的な「欲望人」として一方向的に存在しているのだから。
(·····)ドゥルーズは、われわれ人間=動物は、愚劣・残酷・無気力・下劣・間抜けであるし、それを制度化しなければ生活していけないと見ているのです(….)。われわれ人間は、全員が、運命的に、例えばスキゾイドでありサイコパスなのです。ただし、ドゥルーズは、そのことを肯定も否定もしません。そうであることをよく見て、その現実を生み出している思考の水準を超越論的なもの(·····)として思考せよ、と呼びかけているのです。
因果 – 関係は、どのように解釈されるかによって、より善/より悪の価値を発揮する。しかし、善悪はつねに混合されていると言わねばならない(善の装いの下で悪しき体制が構築されることもあるし、最悪の経験を最善の経験として解釈するような倒錯も可能である)。ここでは、因果 – 関係の分析にもとづく倫理的な問いが、決して終わらないものとして有効である。
悪との出会いは根本的には、無解釈的なものが解釈の圏域に衝突するときに起こる。複数性こそは根源悪なのである。
私たち = 人間は、解釈性を決して放棄できないから(おそらくそうだ)、無解釈的なものの主題化ーーつまり、非人文学ーーがつねに悪しき暴力性を感じさせることはやむをえないことである。もし純然たる無解釈的な状況を仮想するならば、それは、互いに何をされても善くも悪くもない、互いに何をされているのかまったく不明な、〈無倫理的並立〉であるだろう。そうだとしてもそこでは、多様な出来事が異質に経験されている、複数的で異質な思考停止が経験されているのである。
機械的、事務的処理を行き渡らせることで、非定型的な判断を限りなく排除していけば、根源的に不確かに判断するしかない「いい加減」な、それゆえに「不潔」な個人として生きなくても済むようになる。これは、反- 判断である。全員がエビデンスの配達人としてリレーを続けさえすればよい。こうしたエビデンシャリズムの蔓延は一種の責任回避の現象に他ならない。そしてそれが示唆するのは、個人が個として否定性に向き合わずに済ませたいという欲望の肥大化ではないだろうか。
問題となる否定性は、痕跡の「不確かさ」であり「変形」であり、また「消滅してしまうこと」である……等々と換言できるだろう。こうした否定性に共通すると目される概念は、「偶然性」である。
他の可能性を絶対的に押しのける最善の判断などありえない。人間の判断は、根源的に「偶然性」に関わっている。いかなる判断であれ、もっと多様にありえた考慮を偶然的に切り捨てて「しまった」結果であるしかない。何かが「実質的に」重要だという判断が、唯一、排他的に真であるわけがない。こうした判断の偶然性をあたかも無化して(エビデンスにもとづいて)判断できるかのような幻想が、今日において「安心」や「安全」という幻想を条件づけている。
逆説的に聞こえるかもしれないが、次のように言うべきなのだ。何かを「ある程度」の判断によって、大したことではないと受け流す、適当に略して対応する、ついには忘却していく……このような、「どうでもよさ」、「どうでもいい性」の引き受けは、裏切りの可能性を受けつつそれでも他者を肩じることと不可分なのであり、そしてそれは、エビデンスの収集によって説明責任を処理することよりもはるかに重く、個として「実質的に」責任を担うことに他ならないのだ、と。
こうでなくてもよいからといって、他の無限の可能性に開かれるのではない。こうでなくてもよいがこうなってしまっている、あとは、無。
マラブーによれば、可塑性は、状況に応じていくらでも異なった存在のしかたになること、しばしば「柔軟性」と呼ばれることではありません。柔軟性は、たんに受動的であり順応的でしかない。しかし可塑性には、能動的な抵抗性があるのです。可塑的存在者には、有限性があると言ってもいい。どういうことでしょう。存在者がすでに持っている形態は、異なった形態への変化に抗います。ですから存在者が、ひたすら柔軟にどうにでも変わることーーグローバル資本主義における労働の流動化によって強いられる要請には無理があります。現実的にありうる変形・変態とは、制限なしで柔軟なのではなく、既存の形態による抵抗を保持かつ破棄(=止場)するようなプロセスでなければならない。このことが、可塑性の条件なのです。言い換えるなら、既存の形態に別れを告げるにしてもその記憶=痕跡を捨てることはなくいわば既存の形態に喪を捧げつつーー、異なった形態へと変わっていくという弁証法的な歴史ということです。
現実的なものという外部性は、心の内部性の輪邦線をなすのです。しかし、神経科学が扱うような身も蓋もない事故や病変は、心の輪郭線を突き破って、その存在のしかた、本質を、決定的に変形・変態させてしまう出来事なのです。
知覚しえぬものになるという生成変化の極みは、自他の区別を無みすることの謂であるかにも思われる。けれどもここで、郭象のような視点をもって『千のプラトー』を読むならば、知覚しえぬということは、「まさにこれである時には、あれは知らない」という無関心、ある自己充足と他の自己充足のあいだの無関心であり、そのまま気づかぬうちにーー動きすぎないでーー異世界へ旅しているという出来事ならざる出来事こそが言祝がれているのではないか……
自己は、つねに諸々の他者たちと「触発」しあって共同体をなしている。自己そのものもまた、諸部分から、突きつめれば微粒子からなる共同体である。それゆえ、求められるべき自己充足とは、孤立したエゴイズムではないのであって、諸々の他者たちと互いに喜ばしく触発しあう共同体を織り成すことなのである。
バラバラに自己充足しているばかりの存在者たちが、それぞれの自己充足を互いに連合させることで構成される共同体。それがヒュームにおける民主主義のモデルであり、かつ、そのような民主主義のモデルあってこその認識論なのである。
責任を互いに反射=反省しあうための歴史の時空は、あるとしても一時的で不安定でしかない。おそらくそうした状況こそが、戦争と平和がもはや識別不可能になった世界なのではないかーーそれでも他なる存在者と共存すること。それは、最低限、責任なき応答可能性において共に生き延びようとすることに他ならない。そこでは、もはや歴史的なまとまりを持った「個体individu」ではなく、解離した「分割体 dividuel」として物化しつづける自他が、帝国化という善意=悪意さえもなくひたすら無関心な戦争を乱発することになるだろう。そんな戦争のただなかで、ひたすら無関心な平和を希望するという、倫理ですらない希望に賭けること。
『意味がない無意味』千葉雅也/著
ファーガソン曰く、〈国家の敵対関係と戦争なくしては、市民社会そのものが目的あるいはその形を見出すことは難しかっただろう〉。対立する人々への敵対心を認めずに、多様な人々の間に連帯を見出そうとすることは意味がない。
究極的なパラドックスは、暴力と苦しみの経験、愚かさと過ちの王国として立ち現れる戦争が、それても「現実」を見極める試金石だという点にある。戦争が鏡の向こう側を見せつける。そこはイデオロギー、統計のまやかし、メディアの造反、国家の嘘、そして忘れずに加えるべきだが、陰謀のたわ言が徐々に力を失っていく世界だ。
民衆は、エリートが「常軌を逸したグローバリズム」に耽っているのではと疑う。民衆とエリートが、ともに機能するために協調できなくなれば、代表制民主主義の概念は意味をなさなくなる。すると、エリートは民衆を代表する意思を持たなくなり、民衆は代表されなくなる。
社会が個人単位に解体されれば、国家機関が特別な重要性を担うようになるだろう。
個人は「虚無」によって巨大化するより矮小化するからである。
個人というものは集団においてのみ、また集団を通してのみ大きくなることができる。単体としての個人は自ずと小さくなる運命にある。あらゆる集団的信仰ーー根源的または派生的な形而上学的信仰にしろ、共産主義的倍仰にしろ、社会主義的信仰にしろ、国民的信仰にしろーーから一斉に解放された私たちは今、空虚さを経験し、小さくなっている。もはや敢えて自分の頭で考えることもなく模倣を繰り返す小人の群れと化している。
プロテスタンティズムの特徴は、まず神との対話を口実に個人が自らの奥深くに沈潜していく点にある。これはプロテスタンティズムが出現するまではほぼ見られなかった「内面化」を伴う。
プロテスタントティズムのさまざまな宗派の間にある可能性の幅は、「不平等であるという確信」から「平等は疑わしきものという感情」までだ。
同性婚と同様に、火葬の普及は、プロテスタントティズムがゼロ状態に至ったことを鮮やかに示している。同性婚の合法化という指標は、その国てキリスト教が終焉した年を象徴的に示してくれるのだ。イギリスでは、それは二〇一四年ということになる。
新自由主義は、金融を自由化し、生産設備の破壊を進めたのである。
二元論の崩壊は、高等教育によって階層化され、宗教の衰退によってアトム化され、形を成さず、国民的でも、階級的でもない社会を露わにする。
スカンジナビア諸国においても、「国民」はプロテスタンティズムの産物で、だからこそ、プロテスタンティズムの消滅が「国民」を危機に陥れている。経済状態はそれほど悪くないにもかかわらず、彼らが至ってしまった「ゼロ状態」が国内的「不安」を生み出し、ひいてはこれら小国の国際社会での「不安」につながっている。だからこそ、そもそも存在しない「外部の脅威」を追い払うためにNATO加盟て得られる「安心」が求められているのかもしれない。
高等教育の発展は人々を再階層化し、大衆の識字化が広めた平等を求めるエートス、さらには集団への帰属意識を消し去った。宗教的結束もイデオロギー的結束も不可能となり、社会的アトム化と個人の希薄化のプロセスが始動する。共通の価値観によって統御されなくなった個人はこうして脆弱化してしまうのだ。
教育の進歩が最終的に教育の後退を招いた。
プロテスタンティズムは、すでに述べたように人間の平等を信じていない。
黒人排除こそがアメリカの自由民主主義を定義し、機能させていたのだ。
教育階層化がプロテスタンティズムの内部崩壊をもたらし、それが黒人たちを不平等の原則から解放する。
集団的信仰とそれに基づく理想の自我という支えを失い、個人がみな縮小していく時に、黒人たちも「他と同等の個人」となったのだ。
個人の集団が国民的な範囲、普遍的な範囲に及ぶ信念によって結束したものでない場合、あるいは「アトム化された」という意味でアノミー的な集団である場合、そこでは、信念と行為に関して純粋にローカルレベルの調整メカニズムしか作用しない。
高度な個人主義社会におけるアトム化は、特定の場所や職業を拠点に歪んだ求心力を引き起こす。
自分の行為や決断のために、彼らはもはや外部の価値観、特に上位の価値観としての宗教、道徳、歴史を参照しないのだ。唯一残っている意識はローカルレベル、つまり村レベルのものでしかない。
世界一の大国の指導者集団を構成する個人たちが、自らを超越するような思想体系にはもはや従わなくなり、所属しているローカルネットワークに由来する衝動で動いているからである。
『西洋の敗北』エマニュエル・トッド/著、大野 舞/訳