mitsuhiro yamagiwa

序論 現象学においてなぜ曖昧な世界が問題となるのか

世界と、その拡がりに比べればごく限られた領域で生じている私の意識経験のあいだの線引きが曖昧であるということ、それこそが現象学的な存在論を打ち立てる鍵となる。

知覚経験は、抽象的な感覚の寄せ集めに対して後から概念を当てはめるような作業の賜物ではなく、それ自体が外部の存在との接触なのである。

私たちにとってはあらゆる感覚よりも、物そのもののほうがはるかに近いのである。私たちは家のなかで戸がバタンバタンと鳴るのを聞くが、けっして音響学的な感覚あるいはまた単なる騒音だけを聞くのではない。純然たる騒音を聞くためには、私たちは物から離れて聞かねばならず、私たちの耳を物からそらさなければならない。言い換えれば、抽象的に聞かなければならないのである」(Heidegger 1960:15/27f.)。
 知覚は誤ることがあるのだから、それ自体がすでに外部の世界との接触だということはできない、と指摘することはこれらの経験の考察を無意味なものにはしない。それが何の音であるかわからないときであっても、それは「純然たる騒音」として受け取られるのではなく、「何ものかが発する音(外で何が起きているんだろう?)」という意味をもって私たちに迫ってくる。その正体がわからないときでさえ、私たちが事物を聞く姿勢で世界に臨んでいることに変わりはない。世界の開示とは無関係に感覚を感覚として享受しようとすることには、特殊な努力を要する。日常的な経験のうちで私たちが享受する世界は、いまだ曖昧な状態であっても私たちの経験に具体的な対象をもたらす探究の領野として存在しているのである。現在の知覚経験に違和感を感じたとき、私たちは手を伸ばしたり目を凝らしたりすることで、新たな知覚経験によってそれを更新しようとする。このような知覚する存在者の在り方を、ショーン・ギャラガーとダン・ザハヴィは次のように表現していた。

 私たちは実践的な知覚者である。必要な情報は周囲から簡単に入手可能なので、恒常的に更新しなければならない表象ないしは内的モデルで心を一杯にする必要などない。もちろん、私たちは情報を選択的に追いかけ回さなければならない。目を動かし、頭を回し、身体の姿勢を取り直さなければならない。また、事物を吟味できるように、それに手を伸ばし、掴み取り、自分の近くまで引っ張ってきて、いじり回さなければならず、あるいは、それが大きすぎる場合には、そちらの方へと歩み寄っていかなければならない。(ギャラガー+ザハヴィ 2011:144)

 知覚する存在者である私たちは、頭のなかに世界の複製を拵える必要などない。なぜなら、どのようなかたちであれ、世界はいつでも私たちの外部に存在していて、いつでも志向的な経験の対象として出会われているからである。当の経験が誤っているかもしれない、ということによって私たちと世界との絆が断ち切られることはない。
知覚経験は、私たちが身体的技能を所有するおかげで内容を獲得する。私たちが何を知覚するかは私たちが何を行うか(あるいは、どういう技能知をもっているか)によって規定される。(Noe 2004:1/1f.)

即自としての世界と経験された世界を二元論的に区別するのでもなく、まったく切り離すことのできない渾然一体のものだと論じるのでもない可能性を、メルロ=ポンティの「曖昧な世界の存在論」は提示している。

どんなものであるのかはっきりとは分からない、偶然的で曖昧な在り方をする世界を信頼し、知覚経験を認識の根拠として生きる主体の記述である。

第一章 見ているものと見ていないもの

🔹曖昧なものこそが、私が見つめている対象に奥行きや恒常性といった特徴を与えているのだ。つまり、別の視点からも見られうるという対象の性格は、対象の周囲に拡がりその背景をなす「未規定的なもの」によって保証されている。

第一節ライプニッツの『実測図』に対するメルロ゠ポンティの批判

フッサールやメルロ゠ポンティはこの問題にアプローチするために、「背面を持つ対象」の経験について論じている。背面とは、いまこの場所から見ている私には見えていない対象の側面のことである。当然のことながら、私に対象の背面は見えていない。しかし同時に、私が見ている対象は「私からは見えていない背面を持つもの」として経験されている。
〔背景的な〕諸対象は周縁へと後退して色褪せる。しかし依然としてそこに存在し続けるのだ。ところで、私はこれらの諸対象とともに、これらの諸対象の地平をも手に入れている。そしてこれらの地平のなかには、私がいま見つめている対象も、周縁的に見られた姿で含まれている。このように、地平は探索の過程を通じて対象の同一性を保証している。(Merleau-Ponty 1945: 96/128)

私たちの経験には、はっきりと与えられた顕在的なものと、そのはっきりと与えられたものが浮かび上がる背景としての潜在的なものが含まれている。経験が持つこのような構造を指して、地平という言葉が用いられており、そのときにより重要視されているのは、顕在的に現れているものよりも、潜在的に与えられている広がり、文脈、関心といった複合的な背景的要素である。

🔹図と地の関係を基本とする空間性のおかげで、私は別の視点から見られた対象がそれ以前の知覚の対象と同一であることを認識できるのである。それは同時に、私が動き回る眼を持っていること、つまり私の持つ身体的な可能性によって、空間的な知覚が形成されているということでもある。

背景を持つことで、対象は背面を持つものとして経験される。それゆえ、「背景を持つ」知覚は、そうでないものよりも内容的に豊かなものとなる。たとえば、「皮膚の一部をルーペで見ればわかるように、生ける身体も、あまりに近くから、それを浮き立たせる背景なしに見られたときには、もはや生ける身体ではなく、月の風景にも似た異様な物質の塊となる」(Merleau-Ponty 1945: 356/495)と述べられているように、背景を欠いた知覚からは対象のーーいま見えている以上のものを備えている、というーー超越的な性格が失われてしまう。近すぎても、遠すぎても、対象の経験からはリアリティが損なわれてしまうのだ。
 以上のように、単なる現れに尽きない内容を持つ対象の把握が、知覚経験の「未規定性」によって説明されている。このような戦略を採るのであれば、理念としての実測図を持ち出してくる必要はない。なぜなら、「背面を持つ対象」の経験を説明するために、私の知覚経験に与えられているものを持ち出してくるだけでよいからである。対象の経験を説明するための単一の視点というものは、経験の後から仮構された理念に過ぎないのだ。ケリーはそれを「どこでもないところからの眺め(view from nowhere)」(Kelly 2004:90f)と呼んだ。

🔹ある対象について私が実際に持つことができるあらゆる視点は、規範からの偏差である。(Kelly 2004: 92)

「あらゆるところからの眺め」と照らして、いまこの視点よりもあの視点からの方が「よりよく(より悪く)」見えるだろうということが経験のうちで示唆される。それによって私たちは、視点を変更したり、同じ視点に相まったりすることを動機付けられるわけだ。言い換えれば、いまの私の知覚経験のうちには、別の視点からであればもっとよくその内容を把握できるかもしれない、という動機が含まれている。そして、「あらゆるところからの眺め」それ自体は私たちが実際に持ちうるものではないから、いまの現れに対するこの規範的な評価を実質的に構成しているのは、経験における未規定的なものだということになる。
 
🔹私が対象を、そのあらゆる位置、距離、現れにおいて同一視するのは、あらゆるパースペクティヴが、典型的なある距離と典型的なある方向において得られる知覚に収斂する限りにおいてなのである。この特権的な知覚が知覚過程の統一を保証し、おのれのうちにあらゆる他の現れを集めるのである。(Metleau Ponty 1945: 355/494f.)

第三節 「来根定性」の役割の再考

視覚そのものは特定の目的と相関的なものではなく、見ることは汎用的な営みである。それゆえ、なんらかのパースペクティヴだけが特権的だという主張をすることはできない。

すなわち、知覚の役割そのものが単純化された状況が想定されているからこそ、対象の特徴を完全に把握する単一の視点ということが言えるに過ぎない。

🔹対象についての個別の経験は、規範に対してつねに劣位に置かれるのではなく、むしろ規範を形成・修正する力を持っているのである。すなわち、規範は個別の経験から獲得されるものを含みうるものでなければならず、絶対的・一義的なものではない。

🔹ある視点に私が居合わせていること、それがただちに、私の知覚の有限性と、いっさいの知覚の地平としての世界全体への知覚の開けを同時に可能にしている。[…]〔それは言い換えれば、諸々の知覚経験は互いに連結しあい、動機付けあい、含みあい、世界の地殻が私の現前の領野の膨張に過ぎず、その本質的構造を超越するものではないということ、そして身体はそこでもつねに作動者であって決して客体とはならないということなのである。(Merleau-Ponty 1945: 357F/497f.)

第二章 経験をつなぎ合わせる未規定性 グールヴィッチとの対比

第一節 グールヴィッチの参照理論

夢や空想のなかの状況は、それが途切れた後はどこにも存在しないが、現実的な状況は私がそれを経験しているかどうかに関係なく存在し続けると私たちは信じている。だが、このような非現実的経験と現美的経験はどのように区別されているのだろうか。この場合も、経験の外側に説明の根拠を求めることはできない。このような仕方で現象学的に設定された課題に、グールヴィッチとメルロ=ポンティはそれぞれの仕方で取り組んでいる。

未知の対象の背面や内部についての、いまだ曖昧な経験への参照すら、現在の経験のうちに含意されている。このときに参照されているのは、私にとって未知で曖昧な部分のアスペクトを与えてくれるような、実現されるかどうかはまだわからない将来の経験である。つまり、いま経験されている対象の未規定的な部分は、参照されている諸々の経験によって規定されるべき余白として与えられているのである。グールヴィッチはそれを「🔹未規定性とは規定可能性の謂いである」(Gurwitsch 2010:274)とまとめている。
 曖昧で未規定的であるとは言っても、参照は主体のそれまでの経験と一切無関係に生じるわけではない。クールヴィッチによれば、参照される経験はそれがどれだけ曖昧な場合であっても、ある一般的なスタイルやタイプを備えるものとしてもたらされている。つまり、現在の知覚経験に合意されている未規定的な内容は、それまでの経験とも調和する最低限の形式を持つものでなければならない(Gurwitsch 2010: 229-235)。参照される経験が持つ未規定的な部分の形式もまた、経験的に構築されていくとグールヴィッチは考えているのである。

すなわち、事物の実在性は、その事物についての未規定的で曖昧な経験のシステムを充実させていく知覚的な過程に依存するということになる(Gurwitsch 2010: 281f.)しかしながら、知覚的な過程が経験のシステムを滞りなく充実し続けていくかどうかについての絶対的な確証は、知覚的な過程のいかなる段階においても与えられない。この意味において、物質的な事物や知覚的な世界の存在は、実際に経験されるものとしての意識に依存しているのである。

第二節 メルロ = ポンティによるグールヴィッチ批判

「いかなるものであっても、経験には、私たちの視覚に素描されていないものを私たちに教えることはできない」(Merleau-Ponty 1964a: 186/199)。このように、メルロ=ポンティはまず言葉のうえで、「参照」ではなく「素描」によって対象の同一性や実在性を説明しょうとしていたことがわかる。
 
同じ事物についての経験の交替を実現させる結びつき(参照)は、それらを統一するシステムとしての事物に依拠することによって組織されなければならない。だが、そのようなシステムの核となる事物は、参照理論によれば、直接的な経験と参照された経験の結びつきによって形成されていくのだった。このとき、統一的な事物の意識を徐々に高めていくはずの知覚過程が、統一的な事物なしには成立しえない、という議論の循環が生じてしまう。それゆえ、「事物」は決して存在しないーーこのような帰結に私たちは導かれてしまうのだとメルロ゠ポンティは指摘している。そして彼はさらに、事物の実在性は知覚的な過程によって高められていくようなものではなく、感覚的なもののなかにすでに書き込まれている、という自らの見解を示している。

私たちはまずもって実在するものとして与えられる対象に直面しているのだから、その経験を説明しなければならないのだが、グールヴィッチ的な枠組みにひとたび入ってしまうと、説明されるべき項であった実在する対象の経験というものが消滅してしまうのだ。

第三節 メルロ゠ポンティにおける経験の未規定性
 
メルロ゠ポンティにおいて同一性や実在性を備えた対象の意識は、経験の未規定的な領域が、対象のよりよい現れへと私たちを導く「規範」として機能することで構成されると考えられている。一連の知覚経験は、このような規範のもとで、同じ対象の経験として総合されるのであった。

🔹私がひとつの対象を見ることができるのは、諸々の対象がひとつのシステムないしはひとつの世界を形作り、それぞれの対象が自らの周りにその隠れたアスペクトの観察者として、またそれらのアスペクトの特続性の保証として、他の対象を配置している限りにおいてである。(Merleau-Ponty 1945: 971129)

ひとつの対象を私が眼差しているとき、それを取り囲む諸々の対象はその輪郭すら曖昧になって視野の周縁で背景へと退いている。しかしながら、それらは中心的な対象の経験からまったく消え失せてしまっているわけではない。中心的な対象を取り囲む事物は「周縁へと退いて眠り込んでいる。しかし、それらはそこにあることをやめるわけではない」(Merleau-Ponty 1945:96/128)。むしろそれらは中心的な対象を経験する場としての外的な地平をあらかじめ形成しており、この地平こそが「〔知覚的な〕探索を通じて対象の同一性を保証している」(Merleau-Ponty 1945: 96/128)。🔹一連の知覚経験のなかで、実在的で同一的な対象の意識を保証しているのは、曖昧なまま経験の背景となっている外的な地平そのものなのである。

はっきりとした記憶や推測であれば、〔探索のなかで対象の同一性を保証する〕この役割を果たすことはできないだろう。というのも、私の知覚は実際的なものとして与えられているのに、それらは蓋然的な総合しか与えはしないだろうから。(Merleau-Ponty 1945:96/128)

未規定的な曖昧さを伴った外的な地平は、それが直観的に与えられているものだからこそ、対象の同一性を保証する役割を担うことができる。未規定性は、意味のないものでもなければ不都合な条件でもなく、経験の可能性を規定する「積極的な現象と認めなくてはならない」(Merleau-Ponty 1945:28/34)。対象を取り巻く諸々の対象が曖昧な仕方で現れなければならないのは、私たちの身体構造に特有のネガティヴな事情があるからではない。そうではなく、それらの対象が「他の対象を隠してしまうことなしにはひとつの対象が姿を現すことのできないシステムを形作っている」(Merleau-Ponty 1945:96/127)からなのである。

第三章 「私たちにとっての即自」という逆説

第一節 超越と内在

事物は、それを知覚する何者かから分離することは決してできないし、実際に即自的に存在することは決してありえない。(Merleau-Pone 1945:376/522f)

知覚とは逆説(paradoxe)であって、知覚されるものそれ自体が逆説的なものです。知覚されるものは、たんにある人がそれを知覚しうる限りで存在するのです。私はたとえ一瞬でも、対象それ自体といったものを想像することはできません。(Merleau-Ponty 1989:49/12)

🔹私が眺めている事物は、その事物の把握可能な諸層の彼方に後退していくような状況においてのみ、私にとって事物として現れるのです。(Merleau-Ponty 1989:49/12)

🔹知覚されているものは、むしろその側面や背後、あるいはその内側が示唆されることによって、すなわち背景に支えられることで、はじめて即自的なもの一ー私から独立して存在する事物ーとして私に現れてくる。「私が眺めている事物は、その事物の把握可能な諸層の彼方に後退していくような状況においてのみ、私にとって事物として現れる」。知覚されている事物は、私の知覚に尽きないものとして、私の知覚のうちに現れている。このような示唆の様態は、記号のそれとは区別されなければならない。たとえば、煙がその発生源である火を指示するように、記号が知性的な作用を介して私の知覚の外側にあるものを予告する場合を考えることができる。けれども、そのような慣習的なつながりに依存する指示の関係、あるいは推論の関係として、超越的な事物の現れを捉えることはできない。それはむしろ、対象を対象自身として成り立たしめるような現れ方なのだ。したがって、「知覚されている事物は、つねに知覚されている内容以上のものを含んでおり、知覚する者から独立な即自的事物として現れる」。この直観を「超越性テーゼ」と呼ぶことにしょう。
メルロ゠ポンティは、知覚にまつわるこの「内在性テーゼ」と「超越性テーゼ」の両立を主張し、その相克を「知覚の逆説」として論じている。

したがって、知覚においては、内在と超越の逆説が存在します。🔹内在というのは、知覚されるものが、知覚する者と無関係ではありえない、という理由からであり、超越というのは、知覚されるものは実際に与えられているものを超えた何かをいつも内包しているからです。ですから、知覚に関するこの二つの原理は、厳密に言えば矛盾(contradictoires)してはいません。というのも、もし私たちがこのパースペクティヴという観念を反省してみるならば、また、私たちが知覚経験を思考のなかで再現してみるならば、知覚されるものの固有な明証、すなわち「何ものか(quclque chose)」の現出は、現前と不在というこの二つのことを分かちがたく結びつけていることを、私たちが理解するからなのです。(Merleaur-Ponty 1989:49f./12)

🔹存在は知覚経験に対してつねに過剰なものでありながらも、知覚経験に依存して成立する。他方で知覚経験として知覚されている限りでーーつまり、断片的な知覚によってはその全貌を汲み尽くしえないものとして知覚されている限りでーーいまだ判明な現れを伴わない「何ものか」を含意している。

知覚の逆説を構成する「超越性テーゼ」と「内在性テーゼ」とは、突き詰めてみれば、「何ものか」と「私たち」というかたちで経験に伏在(ふくざい)する二つの曖昧さについての主張であると解釈することができる。すなわち、メルロ゠ポンティの立場を適用すれば、これら二つの曖昧さを積極的な特徴として位置付けることが、知覚を理解するための鍵となる。

第二節「何ものか」の超越

私の意識が睡眠や気絶などなんらかの理由によって中断されることがあっても、私の身体は私の身体であり続ける。意識が目覚めたときには、いつでもこの身体をそれ以前からそこにあった所与として見出すことになる。私の身体はこのような仕方で、私が経験するあらゆる事物のお手本、プロトタイプとしてはじめから私に与えられているものなのである。
 経験において対象の同一性や実在性を構成していると考えられていたのは、経験に内在する未規定性であった。しかし、経験において与えられている特徴は、あくまでも私の経験のうちでしか意味を持たないのだろうか。経験が、私たちの意識の内容ではなく、私たちがそこで生きる世界に触れ、その世界について教えてくれるものだという確信(=知覚の逆説)は、どのように理解すればよいのだろうか。
経験のうちで与えられている同一性や実在性と、私たちがそこで生きる世界の同一性や実在性のギャップを解消するために、私たちは自らの即自的な身体とそれが繰り広げる「探索運動」の在り方にも目を向ける必要がある。いまだ知覚されていない「何ものか」の存在を証言するという知覚の逆説を説明するためには、意識にはっきりと与えられている内容から周縁の曖昧な領域へと、そしてさらにはその背後で無意識下に繰り広げられる身体の探索運動とその在り方について論じなければならない。これが第二部の中心的なトピックとなる。

第三節「私たち」という内在ーバークリとの比較

🔹知覚がまず与えられるのは、たとえば因果性のカテゴリーが適用された世界におけるひとつの出来事としてではなく、それぞれの瞬間における世界の再ー創造ないし再ー構成としてである。(Merlenu-Ponty 1945: 251/ 340)

「先存在 Vorsein」とは、いまだ「存在的」ではないが「無Nichts」ではない何かとして考えられている。メルロ=ポンティもまた、そのようなかたちで「無」ではないがいまだ私にとっての意味を持つ「存在」でもないような、世界の在り方を考えようとしている。

例えば、私が眼を閉じるとき、私の見た事物は依然として存在できる。ただし、この事物は他の心のうちにあるのでなければならないのである。(Berkeley 1949:80/113f.)

🔹私が知覚していないときにも誰かに知覚されているものが存在する、という主張は、観測者としての自己と他者が交換可能であるという前提を経由すれば、私が知覚しうるものが存在する、というテーゼに変換することができる。したがって、バークリにおいて「知覚されているもの」と性質付けられていたものが、「知覚されうるもの」へと拡張されているのではないか、と問いかけることができる。

そもそも、知覚がそれ自身を追い越していく自己超越の運動であることは、知覚を単純に見ること、聴くことなどとして捉えている限り理解することが難しい。「私たちにとっての即自」という現象学的な経験の把握は、見られたものや聴かれたものへの私たちの応答、すなわちこの身体を用いた振る舞いの次元まで含めて理解されなければならない。
 知覚が振る舞いと結びついているとはどういうことか。たとえば、ビール瓶に手を伸ばすときに指先が丸くなるのは、自分からは見えていない部分がこれまでと同じように丸くなっていることが知覚のなかで読み取られているからである。散らかした部屋を掃除するのは、そのまま放置するとあとで戻って来たときもそのままになっていて不便だからである。

メルロ゠ポンティによれば、知覚経験における対象の同一性や実在性は、経験に伏在する未規定性によってもたらされている。そしてこれは、単なる錯覚だということにはならない。なぜなら、私たちが経験している事物を超越的なものとして扱うということは、それが私たちの身体によって働きかけ、介入することのできるものとして扱うことでもあるからだ。すなわち、個物の経験とはただの視聴覚的な印象にとどまらず、私たちの振る舞いを根拠付け、動機付けるものである。したがって、経験される対象としての物、ひいてはそれらを包含する世界の在り方について考えるためには、検討すべき経験の範囲を拡張する必要がある。

第四章 対面と共存 動機付けられる主体の空間性

第一節 世界との対面ーー『知覚の現象学』における奥行きの経験

🔹奥行きは、単一の物に接しているという知覚的情念のひとつの契機にすぎない。

🔹知覚する主体は、諸々のパースペクティヴを通じて現れる単一の物に接しているという知覚的情念を持って世界と対面している。私たちは奥行きによって「遠ざかりつつある対象を「持つ」のであり、それを「保持し」つづけ、それに対する手掛りを持ち続ける」ことができる。私たちがこのような仕方で所与のなかに対象を見出すことができるのは、私たちの経験が先述のような知覚的信念に支えられ、そして反対に経験が知覚的信念を確証し続けるからなのである。たとえば、二つの眼球に同時に与えられている二つの網膜像の不均衡は、世界と対面しそれに取り組んでいる主体に対してはまったく問題とならない。だが、私が世界に取り組み、対面することを放棄してうつろなまま眺めやるとき、不均衡なまま二重になった像が現れてくることになる。対象のその都度の現れと接するのではなくて、私たちがなんとかして働きかけることができるひとつの物に対面し、眼前に保持し続けようとする態度が、両目の収斂や見かけの大きさといった動機を奥行きの経験へと結晶化させる。したがって、諸々の動機から奥行きの経験を成立させる「決断」にあたるものは、「単一の物に接している」という知覚的信念なのだ。
 「諸々の経験が相互に含みあい、可能的な過程の全体が一の知覚作用のうちにたたみこまれていること、こうした特徴こそが裏行きの独自な性格をつくる」。つまり、🔹奥行きは複数の現れを結びつけた結果としてもたらされるのではなく、複数の現れを結びつけるために導き出された解答なのである。移りゆく経験が、私たちが単一の物に接しているという知覚的信念のもとで総合される。このような主体の在り方を、本書では「対面的な態度」と呼ぶことにしよう。第一部の内容にも立ち返るならば、対象を取り囲む未規定的な部分が、対面的な態度において「奥行き」として編成されることで中心的な対象の経験が立ち上がってくるのである。
 対面的な態度のもとで対象を把握するはたらき を、メルロ=ポンティは時間的な観点からも理解しょうとしている。「この準 – 総合は、われわれがこれを時間的なものとして理解するならば、おのずと明らかになる」。このような仕方で彼は、総合のはたらきをフッサールの「移行の総合」と結びつける。

 私は遠方の対象を、空間的なパースペクティヴ(見かけの大きさと形)をあからさまに措定することなくして「掌握し」、「所有」する。[…]この総合は、不連続な諸々のパースペクティヴを結びつけるものではなく、それら相互の「推移」を実現するフッサールのいわゆる「移行」の総合であろう。

第二節 世界との共存『感性的世界と表現の世界』における運動の経験

🔹共存するそれらは「共時的なもの(contemporains)」(Merleau-Ponty 1945: 315/436)であって、両者が属する時間的な過去 – 現在 – 未来という次元が、両者の空間的なここ-あそこの次元を理解可能にしている。

つまるところ、経験の領野の組織化は、即自的・因果的なプロセスとしては理解されえないのである。メルロ゠ポンティが挙げているゲシュタルト心理学の成果のひとつに、暗闇のなかで一点の光を見つめているとその光点が動いているように感じられる「自動運動」現象がある。私が運動を知覚しているとき、客観的な空間においてはいかなる変化も生じていない。また、暗闇を明るく照らしてしまうと、このような運動はもはや経験されなくなってしまう。したがって、このような効果が作用する条件を、私が動いていると感じている光点の部分にもっぱら求めるわけにはいかない。運動するものとして経験されるわけでも、はっきりと注意を向けられているわけでもないような背景が運動の経験を動機付けている。このように、運動の経験を客観的な変化と完全に重ね合わせることもなく、とはいえ、主体に与えられている事実を無視することもないという点で、ゲシュタルトとしての運動の探究は運動の実在論と観念論を同時に退けているとメルロ゠ポンティは考えている。
 
メルロ゠ポンティは、次のようにも述べている。「運動は、地の上の図の把握に似ている。むしろ反対に、地の上の図のあらゆる把握が可能的な運動である」。そのような図としての運動は、地のうえに立ち現れてくる。

運動を内包した個別の存在者があり、それを私たちが外部からそのまま認識するというのではなく、運動するものとして現れる存在者を包み込む場において、知覚する私たちと知覚される個物とそれらを包摂する世界との共存関係において運動というものが立ち現れるのである。

第三節 時間性と空間性

「時間は、空間性と別のものではない」とも述べている。『感性的世界と表現の世界』に見出されるこのような態度と、『知覚の現象学』に見られた、空間性を時間性へと還元するような態度とのあいだには隔たりがある。

第五章 規範を感じ取る ウィトゲンシュタインとの対話

「しっくりくる」「ちょうどいい」「ピッタリ」。

つまり、感覚に導かれた私たちの行為は、その状況における適切な対応や対処になっている。それが適切な対応や対処であるのは、私たちが感覚にしたがって行ったことが、社会的な規則や作法に当てはまったり、活動の達成度を高めたり、私たちの感情や思考を的確に表現したりするからである。
 
メルロ゠ポンティ的な用語法に則り、「感覚」を単なる外部からの客観的な刺激の入力としてではなく、感情的な価値を伴った印象として論じている。また、そうした感覚を持つ能力のことを「感性」と呼び、規範を感覚することで環境への柔軟な対処を行う主体の特性についての議論を「規範の感性論」と名付けている。

 
ウィトゲンシュタインは、私たちが「方向付けられた不満足」というかたちで規範を感覚することによって、規範的な行為へと導かれているのだと考えていた。エリック・リートベルドは、この規範性を私たちの身体的な在り方と結びつけて「状況付けられた規範性」と呼んでいる。

第二節 規範に対する感覚ーー「方向付けられた不満足」と「状況付けられた規範性」

その都度の状況を感覚的に評価することで、私たちは反省せずとも規範的に振る舞うことができる(Rietveld 2004: 306)。
 
実生活のなかで人々が美的(感性的)な判断を行っているときに使われる言葉は、「美しい」「きれい」といった美的な形容詞よりもむしろ、「正しい」「間違いない」といった言葉に似ている。「美的判断について語らなくてはならないときに、そのような〔美的な〕言葉はまったく見当たらず、身振りのように用いられて複雑な活動を伴った言葉を見出すことになる、ということに私たちは気付くのである」(Wittgenstein 1967: 11/146f)
 身振りのようになされる美的(感性的)判断において、私たちは「ちょうどいい(it fits)」「しっくりくる(it clicks)」といった、素朴で曖昧さを残した表現によって状況の評価を行っている(cf. Wittgenstein 1967:19)。このような評価はポジティヴな場合とネガティヴな場合に分けられる。ポジティヴな評価は、行為の成功と終了を意味する。そしてネガティヴな評価は、目の前の状況に対するさらなる働きかけを私たちに促す。非反省的な行為の規範性を考えるときにより重要なのは、目の前の状況に対して私たちのさらなる働きかけを要請するネガティヴな評価の方だ。ウィトゲンシュタインは、私たちを状況の改善へと促すこのネガティヴな評価を、方向付けられた美的判断の一種として論じた。リートベルドはこのネガティヴな評価を「方向付けられた不満足」(cf. Rietveld
2004;2008)として定式化している。

第三節 身体化された規範性の在り方ーメルロ゠ポンティの知覚 – 行為論
 
人はただ、緊張や不均衡の感覚を減らすような反応へと差し向けられるだけである。(Dreyfus and Taylor 2015:47F/76f)

目の前の状況が自分たちの活動に最適な状態であるかどうか、私たちはつねに感じ取っている。

第四節 規範の感性論から規範の存在論へ

規範的な現れは、私たちが世界に当て嵌めた解釈にすぎないのか、それとも、規範が感性的に経験される限り、単なる解釈以上のものとして規範の存在論を考えなければいけないのか。私たちはこのように問う必要があるだろう。

第六章 可能性が配合された現実に取り組む
メルロー=ポンティ行為論の定式化

第四節 現実的であるとはどのようなことか

私たちの生きる世界において決して現実化しえないような仮想的・非現実的な環境に身をおき、必然性のまったくないタスクを設定して、私たちは行為することかできるのである。ごっこ遊びやシャドーボクシング、演劇といったように、私たちが非現実的なタスクに没頭する活動を数多く挙げることができる。
 ここまでのメルロ=ポンティ読解を踏まえれば、対象が現美的なものとして与えられているということは、すなわちそれが私たちの身体的な志向性を賦活し、規範的な取り組みへと動機付ける力を持っているということを意味している。

規範とは、身体を備えた実存としての私たちと、私たちがそのなかで生きる世界との関わり方そのものであった。

私たちの世界経験を導く規範は決して一義的・固定的なものではなく、創発的で可塑的なものである。このような特徴は、規範のもとで世界と関わる私たちの在り方にも深く関わっている。

私たちが実際に対処しているところの世界は、私たちがリテラルに現実の世界だと見なしているものよりも広く、そして曖味なものだということだ。このとき、曖昧なまま存在する世界という描像がメルロ゠ポンティを通じて立ち現れてくる。そして本書の関心は、まさしくそのようなものとしての世界をメルロ゠ポンティとともに思考することにある。

第七章 動機付けられた主体は自由でありうるか?

ひとは動機付けがあるにもかかわらず自由なのではなく、動機付けを手段として自由なのである。しかしながら、動機付けと自由の関係がそこで十分に明らかにされているとは言えない。というのも、主体が自由であるためには動機付けが必要であることが述べられてはいても、動機付けられた主体が自由である必然性については述べられていないからである。

数学的な思考の領域とは区別されたそれ以外の領域において、私たちが本質を洞察する仕方は流動的であり、精確に把握することができないーー本書の議論に引きつけるならば、曖昧なーー様式を備えている。

第一節 知覚における「動機付け」ーー『知覚の現象学』を主な対象として

注意とは、諸々の像の連合でもなければ、すでに対象を支配している思惟の自己への還帰でもない。いままでは単に未規定的な地平のかたちでしか提供されていなかったものを顕在化し主題化するような、新しい対象の積極的な構成なのである。対象が注意を発動させると同時に、逆に対象はそのつど捉え直され、あらためて注意の依存のもとに置かれる。対象はただ、まだ曖昧な意味を注意に提供してそれを決定してもらうことによってのみ「認識上の出来事」を引き起こして自分を変貌させてゆくのであり、それゆえ対象は、注意の「動機」なのであって、その原因となるものではない。

注意を向けられた対象は、主体にとってなにがしかの意味を持ち、具体的な判断や行為へと動機付ける。

私たちの自然的な態度における知覚経験が、私たちが世界に慣れ親しむ仕方であらかじめ意味的に分節化されていると考える。そのように分節化されて与えられる対象に、私たちは固有の仕方で応答している。これらの特徴によって、動機は原因や理由から区別される。

対象は概念的な意味ではなく、運動志向的な意味を持つものとして注意の対象となっている。すなわち、それは近い将来の身体的な振る舞いに関わる意味を受け取ることによって、対象となるのである。

知覚野は、私の身体の在り方に基づいて分化されることで、対象を現出させる。このとき、対象とは私をある身体的な応答へと促す力を持つものである。このような意味付けは、私たちが世界をどんなもの「として」経験するのか、を規定する非明示的な基盤となっている。
 
ある表現を私にとってなんらかの表現たらしめているものは、大抵の場合、当の私の意識にはのぼってこない。それゆえ、私たちが自然に受け入れている表現においては、知覚されたものは解釈する私とは無関係にそれ自身がそのようなものとして在るように経験されている。

 意味的に分節化された領野のなかで、私が対象をそのようなもの「として」見ているということがいちいち注目されることはない。すなわち、ある「見え」に対して概念を選択し、それによって事物を解釈するという換作は、自然的な態度における知覚では行われていないのである。

したがって、動機付けるものは動機付けられた現象に依存し、動機付けられた現象は、動機付けるものを顕在化することによって、それを理解可能なものとするのである。
 

規範性

その基本的なポイントは、知覚経験によって主体がある行為へと促されるなかで、主体は知覚された状況からある規範的な「~した方がよい」「~するべきだ」といった要請を受け取っている、というものである。現在の文脈で言い換えれば、動機付けは主体の知覚的な意識とはまったく無関係に身体に見出される傾向性ではなく、非明示的なものではあっても私の知覚的な意識に働きかけ、私がかくかくの仕方で知覚すること、行為することを意識している、ということになる。

 「状況は、ある特定の要求をなすものとして把握されているのであって、私の行為はその要求を満たすものとして経験される。私の行為と、それを動機付けている状況とが、このような意味で「内的に」結びついている」。

第二節「動機付け」論の問題点および自由との関わり

ここでは、メルロ=ポンティの「状況付けられた自由」という考えが提示されている。私たちは、これらの動機付けがあるにもかかわらず、というのではなく、これらの動機付けを手段として自由なのである、と。ここで述べられた自由と動機付けの関係は次のように言いかえることができるだろう。すなわち、「自由な主体は動機付けられていなければならない」。

したがって、私たちは単に因果性の観念だけではなく、動機付けの観念をも放棄しなければならないだろう。いわゆる動機が私の決心に重圧をかけるのではなく、逆に、私の決心が動機にその力を貸し与えているのである。

すなわち、主体にとって自由という理念が意義を持つとすれば、それは私たちの不自由な状態を背景として自由が浮かび上がってくるからである。この不自由さを担っているのが、私たちの身体図式あるいは心理的 – 歴史的構造の重み、すなわち動機付けである。メルロ=ポンティの議論からはこのように、「自由な主体は動機付けられていなければならない」というテーゼを導き出すことができる。
 以上のように、メルロ=ポンティは「主体は動機付けを手段として自由なのである」というテーゼに一定の説明を与えている。

世界から生まれることであると同時に世界へと生まれることである。世界はすでに構成されてはいるが、しかしまたけっして売全には構成されていない。前の関係からすれば、私たちは世界によって促されることになるし、後の関係からすれば、私たちは無限の可能性に開かれていることになる。しかし、この分析はまだ抽象的である。というのも、私たちは同時に両方の関係のもとに実存しているからである。

第三節 動機付けと情念

情念は自らの動機からおのれを創造するからであって、意識の世界では情念を理解することができないのだ。

動機付け[…]は指摘しうるけれども、それらの動機付けで描きうるのはある可能な歴史にすぎず、[…]合理的な説明はその先まで及ばない。それというのも、情念が自らの動機からおのれを創造するからである。

メルロ=ポンティは、ひとが別の人間を特権的な人格として愛するという例を出すことによって、諸々の動機付けにいかに従うかによって自己の実存がまったく異なるものに変化してしまうような場面を問題にする。すなわち、動機付けは私たちが知識では知っていたとしてもこれまで行ったことのない振る舞い、あるいは自分自身にとってもそれがいかなる帰結をもたらすのか曖昧な行為に対しても開かれているのだが、そのような特権的な場面において、私たちは同時に動機付けの無根拠性に直面するのである。
 動機付けは主体と世界の関係性そのものであり、この関係性は現実化した私たちの行為によって変化するダイナミズムを持つ。このように、自らの在り方をまったく変化させてしまうような仕方で動機付けを成就させる主体、そのなかにメルロ゠ポンティは情念という機能を見出す。情念のもとで実際に為された行為は私の身体図式や心理的 – 歴史的構造に影響を与え、動機付けの総体を緩やかに変化させていくことになるだろう。それが、「情念は自らの動機からおのれを創造する」ということの合意である。行為のディテールが異なることによって、私によって働きかけられた世界がまたどのような動機付けを主体のうちに発動させるのか、それはその都度異なったものになるだろう。このように、世界が偶然的なものとして私に与えられ、動機付けが主体に対する究極的な根拠付けを与えられないなかで、主体には具体的な行為へと踏み出し、それを主体と世界の関係性の歴史のなかに組み込んでいく情念という機能が見出されるようになるのである。
 情念の特徴は、それが根拠を持ってしまえば情念ではなくなってしまうこと、すなわち、決定的な合理的根拠を持たないことにある。主体は、諸々の動機付けに晒されていながらも、どのような具体的行為を実践し、おのれをどのように創造するかについて決定的な根拠を持たない。それゆえ、過去の同じ場面の記憶や、共同体の慣習についての知識も当てにならないような、しかも主体の在り方に大きな影響を与えるような決定的な場面においては、動機付けは主体の振る舞いに十分な根拠を与えることができないのである。情念は自らの動機から、新たな、しかし過去と連続性を持った自己を創造する。情念とは、私たちが側然性あるいは不合理性に直面していることによって見出されるひとつの機能であり、それは、目の前の偶然的な動機から首尾一貫した自己を新たに創造する。しかし、そのような情念の働きそのものには、動機付けによる根拠が与えられていない。愛が成立し、それが「自然」なものになってしまったあとには、それは愛し合う二人にとって必然の成り行きに見えるか、それを必然の成り行きに見せるような主体が情念によって創造されるのである。
 情念に「根拠がない」というのは、具体的な行為が主体の心理的 – 歴史的構造とまったく無関係に生じてきたということを意味してはいない。それは、主体の内面に渦巻く様々な感情や情感といったものが、主体にとってどのような意味を持っているかということが、いまだ未決定な状態に置かれている、ということを意味しているのである。

第八章 未規定的な世界を把握するとはどういうことか
概念主義論争とのクロスオーバー

第一節 知覚内容は概念的か非概念的か

 意識の生活(認識生活、欲望の生活、あるいは知覚生活)には、ひとつの「志向弓」が張り渡されていて、これが私たちのまわりに、私たちの過去や未来や人間的環境、物理的・観念的・道徳的状況を投影し、あるいはむしろ、私たちをこれらすべての関係のもとに状況付けているのである。この志向弓こそが感官の統一を、感官と知性の統一を、また感受性と運動性との統一をつくるのである。

第二節 学びつつある意識

反省によって知覚を捉え直す際には、科学的に規定された客観的な実在物や、すでに所有された明晰な概念といった、知覚を通してはじめで把握された構成物を知覚以前の段階に前提してしまうことを控えなければならない。

言葉で特定できる要素を思い浮かべたりすることなく、知覚と行為が直結している。このとき、知覚している内容を言語的に組織化する契機は、対象が私の身体に対して持つ意味よりもかならず後に出現するものとみなされる。

学習とは状況への新たな意味の関係を構立することだと定義する。学習とは、同じ形式の問題に同じ解決を与える能力の獲得であるが、解決の条件も過程も様々に異なるものでありうるのだから、問題とその解決自体がすでに一般性・理念性をもち、それまでの行動可能性に、新たな行動可能性が構造的に組み込まれるのでなくてはならない。

個々別々の状況に自在に対応できる知覚主体の自動性は、知覚が個々別々の状況に対応した回路を発動させるという仕方ではなく、知覚が個々別々の状況に通底する意味をもたらし、それに私たちが対応することができるようになる、という仕方で実現されるのである。『行動の構造』のメルロ゠ポンティは「習慣の転移という事実がこの解釈を裏付け、すべての学習が一般的な性格を持つということを確証するであろう」と述べている。このような「習慣の転移」が成立すること、つまり、単に経験された事例を超えて、意味の一般性を通じて新たな経験に対処することを可能にすること、それが知覚における対処の学習なのである。

 ところで、なぜ「指示」という仕種が動物と人間の知覚を分かつまでに特権的なものとなりうるのか。その理由はおそらく、「これ」という指標詞の両義性にある。「これ」と指示されたものは、自分の身の回りの状況のなかでとりわけクローズアップされて、その対象の特徴について問うことができるようになる(一般性)。しかし、そのような指示が可能となるのは、「これ」と指示する身振りが文脈依存的な対処であることによってである(文脈依存性)。というのも、「これ」という指示がうまくいっている大抵の場合において、私は「これ」がどれなのかを推論によって判断するのではなく、直接的に見て取っているからである。そこに推論を介在させようとしても、「これ」がまさにそれを指しているということの根拠を明示的に表現することはできない。むしろそれは結局のところ、「これ」と言ったときに彼がまさに「これ」を指しているからだ、としか言いようがないであろう。したがって、より抽象的な概念把握の形式は個別の知覚経験に内在している。だからこそ、その適用の基準は完全なかたちで一般化することは出来ず、個別の経験と照らし合わせることによって確認されなければならないのだ。そのように捉え返された知覚経験は、一般性と文脈依存性を兼ね備えているために、概念的とも非概念的ともはっきり規定することのできない性格を持つのである。

第三節「動機付け」と「未規定的なものの地平」

🔸私たちの注意は、意味を介して対象を認識する。逆説的ではあるが、意味はつねになんらかの対象が持つ意味である。命題的な記述は、そのようにして同定された対象が指示しうるものとして私たちに現れているがゆえに可能となっているのだ。
 

世界が真なるものであったり、存在したりするのは、外ならぬ私たちの実存にたいしてであり、つまり、それが統一的であることと分節化していくことは同じものの表裏なのである。

世界は「私たちにとって」真なるものであったり、存在するものであったりする。しかしながら、それらは私たちのなかに存在するのでも、私たちにとってのみ真であるのでもない。私たちが見出した世界は、私たちを包み込んでいる。

知覚された世界をあるがままにあらしめるとき、事物は私の面前で形成と解体の運動のうちにある。これは、すでに完成され、私からまったく独立な世界の印象を、私が反省のなかで手に作り変えることができる、ということではない。世界は肯定と否定の手前にあり、それを具体的な「何か」として知覚せんとする私の目の前で「何ものか」として問いかけられるスタイルで存在している。その意味で、対象を明晰に把握しようとする知覚の営みは、ひとつの逆説である。意味以前のもの、意味の発生を問う営みでありながら、そこに見出されたものはやはり意味を通じて語るしかない。だが、意味以前のものを意味として語ることは原理的に誤っているはずであるし、なんらかの意味として見出されるものであれば、それは意味以前のもの(であった)とは言い難い。このような逆説が、メルロ゠ポンティの哲学に内在している。
 メルロ゠ポンティにとって、「未規定的なものの地平」を捉える知覚の問題は、当初「私たちにとっての即自」というものを理解することであった。ところが、具体的な何かとして知覚され、振る舞いの対象となる事物や空間についての思考はやがて、世界にとって「実在するとはどういうことか」を理解する問題として捉え返されることとなる。

第九章 英雄と悲劇 メルロ゠ポンティにおける歴史的偶然性

第一節『知覚の現象学』における偶然性

世界とは、必然的なものと可能的なものとが、単にその区域でしかないような、現実である。

私たちが生きる世界の偶然性を考えるうえで、メルロ=ポンティは世界の内部的な「存在的偶然性」と世界そのものの「存在論的得然性」を区別している。

世界の根源的な偶然性を理解することは、私たちが生きる現実というものが、必然的なものだけで成り立っているわけでもなければ可能的なものだけで成り立っているわけでもないということを理解することなのである。
 
私の世界がそうであるのと同じ意味で可能な他の世界は存在しない、という私の生の事実性をいかに理解するか、という問題に向き合ったとき、世界の根源的な携然性が前景化する。唯一無二でありながら必然性を欠いている、この私とこの私が生きるこの世界。つまり、そうでなくてもよかった世界としてこの世界はある。

第二節 英雄と悲劇

世界の根源的な側然性は、日常的な経験において見出されるものではなく、ごく一部の特権的な経験において見出される。

世界の目的という観点からすれば、個人が幸福な状態にあるかどうかより、道徳と法にかなったよい目的が確実に実現されているかどうかのほうが重要」(ヘーゲル 1994.66)であると述べて、あくまでも個人のレベルで実現されたものが理性的な目的にかなっているかどうかを重視する。

すべてを仔細に考察すれば、なにひとつとして確実なものはない。

運命というのは、私たちの知らない間にあらかじめ書かれた宿命のことではなく、歴史の只中での、偶然性と出来事との衝突であり、多様なものたる偶発事と唯一のものたる現実的なものとの衝突であり、行動に際して諸可能事のひとつを実現されたものとみなし、複数の未来のうちのひとつをすでに現存するものとみなさざるをえない私たちの必然性なのだから。

悲劇的なのは、私たちがまさしくこの世界のなかの実存であり、人びととの関係のなかで生きる主体であるがゆえに、主観的な意図と食い違っている客観的な状況に対しでも政治的な責任を課せられているという点にある。

人間的な世界とは、開かれ、未完成なひとつの体系であって、世界を不調和に陥れかねないその同じ偶然性が、世界を無秩序の宿命から引き剥がし、無秩序に絶望することを禁じているのである。

🔸人間的な世界はつねに未完成な体系であり、自らと自らを貫く論理を創造しながら歴史を形作っていく。それは、いま現在の私たちそれぞれが持つ将来の見通しのいずれが正しいものであるかをあらかじめ保証するものではない。私たちはつねに私たちの政治的な実践とともにあり、それによってのみ自分たちの展望の是非を確かめることができる。だが、まさしくその実において私たちは主観的な意図と客観的な帰結のあいだに引き裂かれてしまう可能性を抱えてしまう。

第三節 私と世界の奇妙な関係

 人間は、現在の事実から可能的未来の展望を選択し、それにしたがって行動する。つまり、可能性にすぎない未来を現実として扱い、みずからの行動においてこの未来を実現する。しかし、歴史の偶然性に晒されている未来は、蓋然的な未来でしかない。[…]歴史的展望に幾何学的明証性はなく、行為はつねに挫折の危機に晒されているのである」

第一〇章 「何ものか」は在る 知覚的信念について
 
 
第一節 問いかけと知覚的情念

私たちがつねにすでに世界のうちに組み込まれているということは、私たちが世界をつねにすでにそこに在るものとして知覚のうちで捉えていることと決して切り離すことができない。このような組み込みの様態、すなわち、知覚的情念を伴う知覚の在り方そのものが問題となるのだ。知覚的信念への問いかけが深められることによって、彼は現象学的な議論のある限界に立つことになる。そこでは、「知覚における逆説」から「知覚そのものの逆説」への移行、つまりは、「知覚の現象学」から「知覚の存在論」への移行が生じることになる。だが、この移行は転向を意味するものではない。それは、現象学的な議論を徹底的に突き詰めることによって、現象学的な議論をモデルとすることではじめて生まれてくる問いかけなのである。

第二節 知覚的信念 

 それが「何であるのか」は決して自明のものではないし、最終的に自明のものとなることもない。それが「何であるのか」と問われているときの「何」はその他あらゆるものから独立に定まる事物の「本質」とは明確に区別されなけれはならない。私たちがつねに世界に向かって開かれているということが意味するのは、世界が、つまりは私たちの見初める事物がなんらかの「本質存在」として決定的に規定されることはなく、私たちの認識にとってつねに汲み尽くしえないものとして現れてくる、そのような事態である。したがって、哲学者がなんらかの自明視された命題からなんらかの帰結を引き出そうとするときには、つねにそれが曖昧なものと化してしまうような逆転の局面が訪れてしまうことになる。

私たちは結局のところ、「私たちが見ている世界」に対して問いかけることしかできない。メルロ=ポンティが批判する反省の哲学は、このような想定から始めることによって、表象と実在の関係性に対する懐疑を呼び込み、その枠組みのなかで悪戦苦闘することになるのだ。だが、この考え方に即して思考を進めていくとき、私たちが見ている当の表象そのものが「何であるのか」は自明視されている。メルロ=ポンティは、反省の哲学においては透明なものとされているこの「私たちが見ている世界」、反省のなかで明瞭なものとされているこの表象がはらんでいる不透明性を問題とすることで、反省の哲学がその出発点から陥穽(かんせい)にはまり込んでしまっていることを指摘している。

 
「見ることや感じることを理解することは、それらを一時停止させることである」
(Mereau-Ponty 1964a: 58/56)とメロ=ポンティは述べる。「一時停止」とは、本来の知覚的生の経験を私たちが理解可能な語義に翻訳することである。しかしそれは、私たちの言語に還元してそれで事足れりとするものではない。「この翻訳は、テクストの回復を目指したものである」。哲学だけがこのテクストの意味するものを掬い取ることができるのだが、同時に、哲学はこのテクストなしでは無用のものとなる。従来の反省の哲学との区別が、ここではテクストと翻訳の関係を通じて説明されている。経験を哲学的な言語に翻訳したとしても、それ以降その翻訳のなかにだけ留まって理解を進めようとすることは、反省の哲学の誤謬へと私たちを誘うことになる。
 
それは、自己を時間化するという運動を哲学的テクストにおいて実践することであると解釈することができる。自己を時間化するとは奥行きのなかでの現在を遂行することであり、つねに「自分に先立つものがある」ようにして現在の自己を確立することである。それは対自 – 対他のギャップを引き受けてテクストに臨むということでもある。自分がやっていると考えていることと、自分がやっていることのギャップを引き受けること。そしてそのギャップのうちにこそ同一性を見出すこと。一時停止を踏まえたとき、私たちが感覚している実在的なものや超越的なものを迂闊に懐疑へと晒す必要はない。むしろそのような時間的奥行きのなかでこそ、実在的なものや超越的なものを定義しうるのだと考えねばならない。
 知覚される事物と知覚している内容の区別が先にあるわけではない。知覚における「感じるもの – 感じられるもの」の絡み合いという原始的な事実へと目を向けたとき、知覚される対象の実在性が思考のなかで構成されるものへと還元される道理はないのである。原始的な事実への私たちの信念を無視してもっぱら反省された知覚に閉じこもってしまえば、「存在していたのは、知覚された物とその他への開在であったのだが、反省がそれらを反省されたー知覚と、反省された-知覚ーにーおいてー知覚されたー事物に変形され、中性化されてしま」うのである。
 メルロ=ポンティによって、反省の哲学は次の二つの観点から批判されている。すなわち、世界を思考の対象に変えたこと。そして、反省しつつある主観を思考と捉えてしまったこと。この二点である。
 
私は知覚する。それゆえ、私に先立つものかある。これは私たちが自らの経験を反省するための条件であり、退けることのできない知覚的信念である。しかしながら、そこで「ある」と言われているところの世界が、客観的な意味で「何」であるか、と問いかけた瞬間に、私たちに先立つものといての世界はそれ自体としては捉え損なわれてしまう。

 世界が私たちの知覚の以前にあらかじめ存在し、他者の知覚する世界の諸相がもっとあとで私がそれらについて持つであろう知覚よりも先に存在し、私の世界の方がやがて生まれてくる人たちの世界よりも先に存在するという事実があり、そしてこれらすべての「世界」がただひとつの世界を構成するわけであるが、ただしそれは、様々な物と世界とが、それぞれに固有の特性をもった思考対象であり、真なるもの、妥当するもの、意味の秩序に属していて、生起する出来事の秩序には属さないという限りにおいてなのである。世界がすべての主観にとってただひとつであるかどうかの問いは、世界が理念的存在であることを認めたとたんに、一切の意味を失う。

反省による普遍的精神への私の接近は、最後には私がずっと以前からそうでありつづけているところのものを発見するどころか、むしろ私の生と他者たちの生との、私の身体と様々な見えるものとの交錯によって動機付けられており、私の知覚野と他者たちの知覚野との交錯、私の持続と他人たちの持続との混合によって動機付けられているのだ。

哲学が説明すべき状況、それは反省と反省に先立つ知覚に共通する「自己に還るとは、自己から出ることでもある」という逆説を受け容れることによって見出される。知覚とは、たえずこのように逆説的な経験をもたらすことで、反省に養分を与え続けるものなのである。それはすなわち、知覚が次のようなものであることを意味している。

知覚の場合には、結論が理由の前に来るのであって、理由は、知覚が動揺したとき、その代わりをしたりあるいはこれを助けるたりにそこにあるにすぎない。(Merleau-Ponty 1964a: 74/75)

したかって、知覚的信念はそれが他の根拠と同列に扱われるものでもなければ、他の根拠によって基礎付けられるものでもない。知覚的信念は、まずもって与えられている。

第三節 知覚の存在論的機能

本質を本質たらしめているもの、私たちの個別的な直観を乗り超え、思考のあらゆる諸限界を飛び越えて通用するものとして本質を提示するものは、経験なのだ。

問いは哲学にとっては、われわれの実際の視覚と折り合い、その視覚のなかで私たちを思考へと促しているものに対応し、その視覚を作りなしている諸々の逆説に対応するただひとつのやり方なのだ。

私たちの世界は「未完成の作品」なのである。

世界とはすべての知覚的存在者が分かち持っている普遍的スタイルのようなものでもある。すなわち、私たちがそこで生きる世界とは、なにか一般的な特徴を挙げてあらかじめ規定することのできるものではない。そうではなく、「何ものか」というスタイルで世界は存在する。

🔸知覚はそのそれぞれが、ひとつの接近の、つまり一連の「錯覚」の終点であるが、その錯覚は単に〈対自存在〉や「考えられただけのもの」という狭い意味での単なる「思考」だったのではなく、ありえたかもしれない諸可能性、この唯一存在する(il y a)世界の放射だったのであり、したがって、決してあたかも出現しなかったかのように無や主観性に還帰するのではなくて、むしろフッサールが言っていたように、「新しい」現実によって「抹消」ないし「削除」されるのである。

それによって何ものかがあることになるこの出来事に、私たちは居合わせている。

私たちが立てるべき問いは、「世界が本当に在るのか」などといったことではない。言ってしまえば、それは知覚的信念によってつねに与えられていることであって、「私たちが問うているのは、世界にとって実在するとはどういうことか、なのである」(Merleau-Ponty 1964a: 129/134)。   

第四節 世界にとって、実在するとはどういうことか

哲学とは、おのれ自身に問いかける知覚的信念なのである。あらゆる信念と同様に、哲学についてもそれが信念であると言いうるのは、それが疑いの可能性だからであり、そして私たちの生そのものにほかならないこの飽くなき物の巡回もまた、連続的問いかけなのだ。

私たちは、直接的なもの、つまり存在ないしは超越というものを「距離をおいて」知覚することしかできない。むしろ、そのようなかたちで知覚されるということが存在にとって本質的なことでもある。この距離は空間的でもあれば時間的でもある。知覚経験において自己はすでに時間化され、私に先立ってこの世界に存在する事物に取り囲まれている。このようなかたちで世界と関わる私たちの原初的な態度を、彼は知覚的信念と呼んだのである。そこで自らに先立つものとして、つねにすでに距離をおいて存在する世界は、しかしながら具体的な何かとして存在するわけではない。そうした具体的なものは、私たちと世界のあいだで生じる問いかけにおいて見出されてくるのであって、世界そのものは、それ以前の「何ものか」として、だが確固として存在している。そのような在り方をメルロ゠ポンティは「試問的な様態」と呼んだのである。

第一一章 試問的な様態で存在する世界

第二節 問いかけの存在論!試問的な様態で存在する世界

メルロ=ポンティは、実在性は具体的な「何か」の段階ではなく、その「何か」が切り出されてくる「何ものか」の段階で構成されると論じているのである。
 

個々の事物が実在するものとして在るのではなく、実在性を備えた空間的なシステム(≒素描)を私たちが探索(=試問)することで、個々の対象が現れてくる。

外的地平に支えられて対象を探索する営みとしての知覚は、世界がそれによって存在として与えられる準拠点であり、存在するものについて「何が存在するのか?」という後続の問いをもたらす「問いかけの思考」として位置づけられる。

 知覚は、知覚された世界を措定するというよりは、それをあるがままにあらしめ、その面前で物が、イエスやノーの以前に、一種の地滑りのうちで形成されたり解体されたりする問いかけの思考として理解されるべきものなのである。(Merleau-Ponty 1964a: 136/142)

未規定的な地平が、事物が事物として認識される以前の曖味な雰囲気として、私たちを包み込んでいる。そのさなかで私たちは、一義的でもなければ固定的でもない「動機付け」に促されながら、世界を探索する。動機付けられた主体の問いかけを通じて、世界のなかに実在的な事物がたち現れてくるのである。
 事物よりもさきに曖昧で未規定的な世界の持つ実在性があり、そのさなかで、私たちは知覚的な問いかけによって実在的な事物を切り出してくる。「実在する」という述語が最初に適用されるべきなのは、個物ではなくそれらと私たちを包み込む世界なのである。しかしながら、具体的な経験において私たちが出会っているものは世界ではなく特定の対象である。そして、この特定の対象と出会うことから、他の対象、他の場所へと、世界の探究が始まる。このような、ある意味で倒錯した在り方をする世界のことを、メルロ=ポンティは「全体的部分(partie totale)」と呼んでいた。

 「世界」とは、それぞれの「部分」がそれだけ捉えられたときに突如無制限な諸次元を開くーー全体的部分になるーーような全体のことである。(Merleau-Ponty 1964a:267/314f)

全体的部分としての世界は、「試問的な様態で存在する」。

哲学は知覚的信念に問いかけるのだが、しかしふつうの意味での回答を期待もしないし、受けとりもしない。なぜなら、その問いを満足させるのは、ある変項や未知の常項の露呈ではないからであり、また実在の世界は、試問的な様態(le mode interrogatif)で存在しているからである。(Merleau-Ponty 1964a: 137/143)

試問的な様態のもとにある世界の存在は、決してア・プリオリに「……である」と定義されうるようなものではない。

実在する世界のなかで生きること、それは終結することのない連続的な問いかけのなかに身を置き続けることである。
未規定的な世界のさなかで、環境と習慣に絶えず動機付けられながら世界に問いかける実存。このモデルのうちで、私たちは外的な地平から、目の前の事物が客観的で実在的なものであるという認識を汲み出している。🔹私たちはすでにある事物に直接触れるのではなく、世界のただなかで事物を見つけ出す。このようなメルロ=ポンティの捉え方を踏まえれば、私たちと事物とのふれあい、そこで認識される真理について考えるときに隔たりや奥行きといった空間的な距離に由来する概念を強調することも理解できるだろう。メルロ゠ポンティは真理についても、フリードリヒ・ニーチェから同じ主張を読み取っている。🔹すなわち、「真理はヴェールを被ってのみ真理である」(MerleaurPonty 1996: 278/340)。私たちの知覚に準拠することのない純粋なそれ自体や真理という考えを批判する彼にとって、即自的なものや真理はある種の距離によってはじめて可能になる。
 🔹問いかけとは「その現実化が決して私たちの想像するようなものとはならないようなある全体、それにもかかわらず、私たちが倦むことなくそれを信じているがゆえに、私たちのうちで秘かな期待を満たしているある全体の前もっての所有」(Merleau-Ponty 1964a: 64/64)である。そこで所有されるある全体、すなわち「世界」以前の世界については、どんなものであるのか、決して規定することはできない。問いかけられる対象がどのようなものなのか、どこにあるのかも分からないまま私たちはそこに問いかける。曖昧な世界と問いかける知覚的存在者のあいだに具体的な事物がたち現れてくる。それは動機付けによって私たちがあらかじめ思い描いていたかたちで実現するとは限らない。曖昧な世界は、そのように私たちをつねに裏切ってしまう可能性、すなわち根源的な側然性を秘めてもいる。メルロ゠ポンティの「問いかけの存在論」は、このような世界像を私たちに提示しているのである。

(7)「探究、問いかけ、問い(Fragen)は、言語の群生とその歴史の中で、野生の状態においてしか理解されない。そこでは内在-超越のジレンマはもはや存在しないのである。そしてこのジレンマがそこに存在するのは、私たちが永続的な問いかけを保持しているからにほかならない。諸々の意味作用は、諸々の意味作用のあいだの隔たりでしかない。そこで何ものかを理解しているというのは、むしろ私たちの錯覚である。そのときその何かは神秘的なものに見える。だから問いかけは、実存の在り方として(思考の操作や言葉の操作としてではなく)理解されるべきなのである」(Merleau-Ponty 1996: 129/155)°

 
主体はそのように「世界によって」促されているのである。これは観察者についてのいかなる想定にもつきまとう。世界は理想的な観察者にとっでもも確定的な記述で覆い尽くすことのできない仕方で存在している。

第三節 世界の創造としての表現

 
「あらゆる知覚、知覚を前提とするあらゆる行為、要するに人間の身体的使用はすべて、すでに原初的表現なのである」(Merleau-Ponty 1960: 84/155)。

🔹知覚とは曖昧なかたちであれ実在している世界を信頼し、それが「何であるか」を明らかにする。つまり、知覚において表現されたものは、知覚の瞬間から存在し始めたのではなく、当の知覚以前から存在していたものとして想定されるのである。知覚は創発的な発見により、絶えず世界を更新していく。
 
🔹世界を感じられるものに変える表現の営みは、私たちの生きる世界が曖昧なものであるがゆえに、決して終わることのない務めなのである。

不安定とは、運動や移行のさなかにある系の状態のことである。シモンドンが試みたのは、安定と不安定の二者択一で思考していた哲学の貧弱なボキャプラリーに対して、自然科学の知見を援用して、安定でも不安定でもないような状態を指す「準安定的平街(metastable equilibrium)」という概念を導入することであった。

🔹話し手の言葉は、直前に語られた、聴かれた言葉との関係のなかで、まったく予期しえなかった仕方で新たに結晶化する。このような個体化の運動が、言語という準安定的な平衡のうちで存在するものを新たに形作っていく。


 
結論 志向性の探究の果て 未完成な作品としての世界

🔹いま私たちが見ている具体的な事物で構成された世界は、ア・プリオリに存在する世界と私たちの物理的な身体の相互作用によって導き出された結果なのではなく、知覚的信念によって結びついた世界と身体が創造した解答である。そしてこの解答はまた、規範という仕方で私たちの生を動機付けていくことになる。

『問いが世界をつくりだす メルロ=ポンティ 曖昧な世界の存在論』 田村正資/著より引用。

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