mitsuhiro yamagiwa

メッセージーキュビスムの革命

キュビスムは「模倣の芸術ではなく、創造にまで高まろうと目指す概念(コンセプション)芸術である」と言ったのは、詩人ギョーム・アポリネールです。キュビスムという運動が、地理的にも、その主題や美学においても多種多様であることを特徴とするからには、この「概念」という言葉を「さまざまな概念」と言い換えることもできるでしょう。そして今日、わたしたちが心から尊重するのは、まさにその芸術的な多様性にほかなりません。

本展では、14の章が連なる長い道のりをたどりながら、1906年から1920年代まで、すなわちセザンヌからピュリスムの時代に至るキュビスムの広範な歴史を紐解いていきます。

それは、西洋の内部とヨーロッパ圏を越えたところにあるキュビスムの複数の源泉に始まり、よりラディカルな、あるいはよりアカデミックな形態への発展、彫刻の再創造やイタリア未来派のような同時代の美学との交差、さらにパリに集ったロシアの芸術家たちによるヨーロッパ全土への波及、そして第一次世界大戦によって引き起こされた離散と最後のピュリスムにおける新展開という、キュビスムの歴史の諸段階です。

ポンピドゥーセンター総裁

ローラン・ル・ボン

国立近代美術館・産業創造センター 館長

グザヴィエ・レイ 

キュビズムは多視点化された観念像である。わたしはわたしたちを総合するかのように、多角的に代弁者を生み出しつつ発展を遂げる…。

わたしはわたしたちへと拡張、概念的他者像をうみだしつつ「集団肖像画」となる。

ピカソ 《裸婦》1973

対象を鉱物の結晶の塊のように描く独自の表現を確立

パピエ・コレ(貼られた紙)

平面が重なり合うような構成

ダニエル=アンリ・カーンヴァイラー

(1884-1979)

『キュビズムへの道』1920年

キュビズムの展開がカントを拠り所とした美学に基づき論じられている。

サロン・キュビストたち

「同時主義」は空間や動きを表す原理

1907年のセザンヌの回顧展に感銘を受け、形態の幾何学化や単純化を推し進める

「セクション・ドール(黄金分割)」

ピュトー・グループ

数学、四次元の概念、そして運動の生理学的分析といった科学を、キュビズム理論と結び付けるようにした。

集団肖像画である可能性

「立体未来主義」

「機械主義」

コルビジェ 「ピュリスム」

「装飾芸術」を排除

「住宅は住むための機械である」

大衆的な「スペクタクル」

テンポとリズム

単純化されるがゆえに多層化・多面化される。

「わたし」は、「わたしたち」性へと移行、変成を遂げることは「歪み」へと進行することなのだろうか。

キュビスムをめぐる「戦争」

フランスとドイツとの間の戦争によって、キュビスムはナショナリズム的な政治闘争の対象ともなりました。キュビスムの芸術家たちの作品がドイツ人画商カーンヴァイラーによって扱われていたこともあり、すでに戦争の以前から、キュビスムはドイツと結び付けられ、フランス語のCではなくドイツ語的にKで始まるスペルでキュビスムが示されたり、「コニスト」(フランス語の「円錐(cone)」と、「愚か者(con)」とが重ねられている)と併記して揶揄されていたりもしました(no.D23)。

大戦が始まると、キュビスムはドイツによる文化侵略だと非難されるようになり、当時の挿絵雑誌などでは、キュビスムによってフランス文化が堕落してしまったと糾弾されました。戦意発揚の名目で1915年に創刊された「ラ・バイヨネット(剣』には、キュビスムの画家は、赤髪で口髭のあるドイツ人のように描写されたり(no.D24)、フランケンシュタインの怪物のごとき容貌で表わされたりしました(no.D26)。

これは、キュビスムこそがフランスの伝統を受け継ぐフランス的な美術であると考えていたサロン・キュビストたちの主張とは真っ向から対立する非難であり、アポリネールらはキュビスムを擁護する立場から反論を行いました。

画家アメデ・オンファンが創刊した雑誌『レラン(飛躍)』には、「キュビスムの同志たちへ」と題された文章が掲載され、フランス人のキュビスムの芸術家たちが前線でドイツと戦っている事実を指摘し、フランスにおいてキュビスムを「ボッシュ(boche)」(「ドイツ人、ドイツの」を指す蔑称)の絵画と攻撃することが不当であると訴えています(no.D25)。

フェルナン・レジェ「バレエ・メカニック」全文

(『レスプリ・ヌーヴォー』28号、1925年より)

事物ーイメージーもっとも日常的なもの。

の映写。

人の顔、顔の断片、金属製の機械の断片、工業製品、最小限の遠近法によるクローズ・アップ

この映画特有の関心は、「静止したイメージ」と、そのイメージの計算され、自動化され、減速あるいは加速され、追加や類似を伴う映写に対して我々が与える重要性に向けられている。

シナリオはない。一リズムに従ったイメージ同士の反応、それがすべて。

この映画を構成するうえで関心を寄せた2つの係数:映写速度の変化。

それら複数の速度のリズム。

ある重要な成果は、マーフィー氏の技術的な革新とエズラ・パウンド*1氏に負っている。

それは、投影されるイメージの度重なる変化である。

いくつかの絵になるような「絵葉書」的なイメージの通過は、それ自体ではなんの価値もないが、それらに続く諸々のイメージとの関係や相互反応のなかで、多様な変化とコントラストを生むために意味をもつ。

映像は7つの縦のセクションに分かれている。それら(クローズ・アップ、奥行きの欠如、動きのある画面)の速度は、緩やかなものから急速へと向かう。

各セクションはそれぞれ固有の統一性を有しているが、それはよく似た、あるいは同じ性質の諸々の事物=イメージの集合がもつ類似性に由来している。このことには、構成する、そして映像の断片化を避けるという目的がある。

個々のセクションにおける多様な変化を確保するために、類似する形態(色彩)が各セクションを横切るよう非常に急速に挿入されている。

この映画は終始、十分に正確な計算の原則に従っている。出来うる限りにおいてもっとも正確な計算に(数、速さ、テンボ)。

事物は以下のリズムに従って映写される:

1秒につき6コマを30秒間

1秒につき3コマを20秒間

1秒につき10コマを30秒間

観る者の目と精神が「もはやこれを受け入れなくなる」まで、我々は「繰り返す」。耐えられなくなるその瞬間まで、我々は事物のもつスペクタクルの価値を汲み尽くす。

この映画は客観的で現実的であり、まったく抽象的なものではない。

私は、ダドリー・マーフィーとの緊密な共同制作によってこれを作りあげた。

我々は、作曲家ジョージ・アンタイルに対して、映像にシンクロする音楽の編曲を依頼した。ドラコム氏*2の科学技術のおかげで、我々はもっとも絶対的な手法でもって、音とイメージの同時性を機械的に得ることを期待できる。

1924年7月

フェルナン・レジェ

  • 1.アメリカの詩人。レジェ、マーフィー、アンタイルの三人をひき合わせた人物。
  • 2.フランスの発明家シャルル・ドラコミューヌのこと。映像と音声(オーケストラの生演奏など)をシンクロ(同期)する機器「サンクロ=シネ(Synchro-Cine)」の発明で知られる。