第一章
資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい
(「いつになれば戦争は終わるのだろう?」)。
行動は無駄であり、意味のない希望にだけ意味がある。救いなき者が最初に流れつく場として、宗教や迷信がはびこる。
新しいものは現存のものとの相互関係において自己を定義すると同時に、現存のものは新しいものに応じて自己を再構成しなければならない。
文化的実践や儀礼が単なる美学的なオブジェに変容されることによって、かつて各々の文化が信じていたものは、客観的に皮肉られながらアーティファクトと化する。資本主義リアリアリズムとは従って、リアリズムの特殊形というわけではなく、むしろ、リアリズムそのものに近い。
資本主義とは、さまざまな信仰が儀礼的・象徴的な次元において崩壊した後に残るものであり、そこにはもう、その廃墟と残骸の間を彷徨う消費者=鑑賞者しかいない。
あらゆる存在が金銭的観点のみによって評価されるという、極めて不平等で残酷な事態が、私たちに理想状態として提示されている。自らの保守主義を正当化しようとする既成秩序の擁護者たちは、この秩序を素晴らしいとか、理想的だとはなかなか言えないが、代わりに、その他すべてのものが最悪だと言うことにした。
そこにあっては、成功さえもが失敗を意味した。というのも、成功することとは、システムを肥やす新しいエサになることにすぎないからだ。ともかくも、コバーンとニルヴァーナが抱えた激しい存在論的不安は、今や過去のものとなった。彼らを継承して現れたのは、不安を感じずに過去の形式を再生産する、パスティシュ・ロックなのだ。
「リアルさ」、それは社会的なものの死である。つまり、増加する利益に対して昇給や福利ではなく、(…)人員削減(福利や雇用保障のないフリーランサーとパートタイマーからなる雇用プールをつくるために、正社員を縮減すること)をもって応える企業の世界を指し示している。
ヒップホップにおいて「『リアルになる』〔to get real)ということばは、食うか食われるかという勝ち負けの世界で、ほとんどの人が負け組になるという自然状態を直視することを意味する」。
第二章
もし君の抗議活動にみなが賛同したとしたら?
資本主義におけるイデオロギーの役割とは、プロパガンダのように何かに対して明示的な主張を行うことではなく、むしろ資本があらゆる主観的信念に依存しないで機能できるという実態を隠蔽することにある。プロパガンダの関与しないファシズムやスターリニズムは想像できないが、資本主義は代弁者がいなくてもまったく問題なく、ある意味、より円滑に機能し続けられるのだ。
九・ーーの世界貿易センタービルへのテロ攻撃以来、その勢いを失ってきたいわゆる反・資本主義運動は、以前にもまして資本主義リアリズムに対してあまりにも多くの妥協をしてきたように思われる。
真の政治的主体性を取り戻すとはまず、欲望のレベルにおいて資本という容赦なき肉挽きマシンによって翻弄されている私たちの関与のあり方を認めることから始まる。悪や無知を幻影的な「他者」へと振り払うことで否認されるのは、私たち自身の、地球規模にわたる圧制のネットワークへの加担である。心にとめておかなければならないのは、資本主義が超抽象的かつ非人称的な構造であること、かつ、私たちの協力を無くしては、資本主義も皆無になること、この両方である。
資本とは抽象的なパラサイト、食欲な吸血鬼、ゾンビを生み出す機械である。けれども、それが死んだ労働に変えていく生きた肉体は私たちのものであり、それが生み出すゾンビは、私たち自身なのだ。ある意味では、政界のエリートたちは私たちの単なる使用人に過ぎない。彼らによって提供されるのは、私たちのリビドーを浄化するという哀れなサービスだ。あたかも私たちと無関係であるかのように、彼らは私たちの否認された欲望を愛想よく代理=表象してくれるということである。
第三章
資本主義とリアル
資本主義リアリズムを揺るがすことができる唯一の方法は、それを一種の矛盾を孕む擁護不可能なものとして示すこと、つまり、資本主義における見せかけの「現実主義」が実はそれほど現実的ではないということを明らかにすることだ。
いうまでもなく、「現実的」とされるもの、つまり、社会的領域のどこにおいても実現可能性を持つとみなされるものは、一連の政治的規定によって定められている。あるイデオロギー的な姿勢は、それが自然化されない限り、現実に成功することはできず、そしてそれが事実ではなく特定の価値だとみなされている限り、自然化させることはできない。そこで新自由主義は、倫理的な意味合いでの価値というカテゴリーそのものを排除するよう努めてきた。
バディウが苦い口調で述べるように、「可能性の範囲が厳格かつ隷属的に定義されることが『近代化』と呼ばれる」のだ。「そうした『改革』はつねに(多数派にとって)実現可能だったものを不可能にし、(支配権をもつ少数派にとって)本来無益であったものを利益を生むものにすることを目的とする。」
現実原理とは物事の自然な在り方ではないのだ(中路)。現実原理そのものはイデオロギーによって介される。いや、むしろそれがイデオロギーのもっとも高度な形式、すなわち、経験的事実あるいは(生物学的、または経済学的な)必然性として現れる(そして、私たちがしばしば非・イデオロギー的だと捉える)イデオロギーを形成しているとさえ言えるのだ。私たちがイデオロギーの仕組みにもっとも注意を払わなければならないのは、まさにこの点である。
ラカンにとってリアルとは、あらゆる「現実」が抑圧しなければならないものであり、まさにこの抑圧によってこそ、現実は構成されるのだ。リアルとは、目に見える現実の裂け目や、そのつじつまの合わないところのみに垣間見ることのできる、表象不可能なXであり、トラウマ的な空洞だ。だから資本主義リアリズムに対抗する上で可能な戦略のひとつは、資本主義が私たちに提示する現実の下部にある、このようなリアル(たち)を暴き出すことであろう。
地球温暖化や資源の枯渇といった問題は抑圧されるというより、むしろ広告やマーケティングの中へ取り込まれているからだ。こうした環境破壊の扱われ方において、資本主義リアリズムが依存するファンタジーの構造は浮き彫りにされる。その前提によれば、資源は無限にある、地球そのものは資本にとって古びた外皮のように、いつしか剥ぎ落とせる単なる殻に過ぎず、そしてあらゆる問題は市場が解決してくれるというのだ。
後期資本主義の文化において、環境破壊は単なるシミュラクルとして機能する。資本主義にとってその真の含意は、システム内部への回収を不可能とするほどトラウマ的なのだ。エコ批評が重要なのは、それらが、資本主義が唯一の継続可能な政治経済的制度とは全くかけ離れているばかりか、実は人間を取り巻く環境全体を破壊しかねない性質を備えているということを指摘しているからである。資本主義と環境破壊の関係性は偶然でも事故でもないのだ。資本が必要とする「恒常的な市場拡大」およびその「成長のフェチシズム」は、資本主義がまさにその本質において、あらゆる持続性の概念と矛盾するということを意味している。
資本主義リアリズムは、精神の健康状態をまるで天気のような、自然な事実として扱うことにこだわってきた(もちろん、その反面、天気はもう自然現象ではなく政治経済的な結果になったのだが)。
第四章
再帰的無能感、現状維持、そしてリベラル共産主義
私たちが目前にしているのは、昔ながらの若者的なアンニュイではなく、「接続過剰のせいで集中できない」ポスト文字社会の「新しい肉」〔New Flesh〕と、衰退していく規律制度の基盤となっていた閉鎖的かつ収容的な論理の不釣り合いなのだ。「つまらない」と感じることは単純に、チャット、YouTube、ファストフードからなるコミュニケーションと感性的刺激の母胎に埋め込まれた状態から離脱させられ、甘ったるい即時満足の果てしないフローを一瞬だけでも遮られることを意味している。
ドゥルーズが述べるように管理社会は閉じ込めではなく負債によって成立しているのだが、現在の教育制度はある意味、学生に負債をおわせると同時に、彼らを閉じ込めてしまうのだ。自らの搾取のお代を自分で払えという論理。借金をした挙句、十六で退学した場合にもできたであろうバイトをやることになるんだ……。
ポスト・フォーディズム型の管理社会において、「柔軟性」、「多国籍性」、「自発性」というものはマネジメントの特徴に他ならない。それにしても、ここで問題なのは、柔軟性や脱中央集権化への抵抗がつねに自滅的になりかねないという点だろう。
資本主義が「新奇性」を横領してきたことに対して異議を申し立てることは重要だが、「新奇性」を取り戻すことが、私たちのおかれている状況へいかに適応するかという問題にはなり得ない。
適応であれば、これまでも必要以上にうまくやってきたことだし、「うまく適応してのける」というのはそもそも管理主義の戦略そのものだ。
現状維持 〔immobilization〕のモデル、要するにフォーディズム=規律制度の維持を求めるというやり方は、イギリスでも、また新自由主義がすでに根ざしている他の国でもうまくいくはずがなかった。
第五章
一九七九年十月六日ーー「何事にも執着するな」
資本主義は(親から子供と過ごす時間を奪い、互いを感情的に支え合う唯一の慰めになるカップルに耐え難いストレスをかけながら)家族を弱体化させるが、それと同時に(労働力の再生産およびその保護に不可欠な手段、または社会経済におけるアナーキー的状況がもたらす精神的傷を慰めるための救心剤として)また家族を必要としてもいる。
労働と生活は不可分となる。資本はあなたを夢の中まで追いかける。時間は線状であることをやめ、混沌となり、点状の区分に分解される。生産と分配が再編成されながら、人間の脳神経もまた再構成される。
今や対立は外部、つまり敵対する階級連合の間ではなく、むしろ労働者の心理の内部に移動している。
資本主義は人々の感情をエサにしながら、それらの感情を再生産していくのだが、その規模の大きさは、これまでのどんな社会制度にも類例をみない。せん妄も信任もなければ、資本主義は機能できるはずがない。
利己的な資本主義がいかに「野心と、その野心が叶うという期待」を煽り立てるかを指摘している。
あなたが成功できないなら、責められるべきはただ一人、自分だけなのである。
第六章
形あるものみな広報へと消えゆく
ーー市場型スターリニズムとお役所型反生産
もともと反・官僚主義かつ反・スターリニズムの旗を掲げて登場した新自由主義政権のもとで、お役所的な形式主義にまつわる処置がむしろ増加しているということは、一見したところ不思議に思われるかもしれない。上からの意思決定や中央集権的な管理の終焉を告げる新自由主義的なレトリックが顕著となったにもかかわらず、「目的と目標」「結果主義」「ミッション・ステートメント」をめぐる新しいタイプの官僚主義が浸透してきているのだ。官僚主義とは抑圧されたものの回帰、皮肉にもそれを破壊しようと明言したシステムの中心部から再び浮上してきたものに思えるかもしれない。しかし、この新自由主義における官僚主義の復古は、単なる先祖返りでも、変則的な例でもないのだ。
リチャード・セネットは、ピラミッド型組織のフラット化は実際のところ、労働者の監視を増加させることになったと指摘している。
新しい情報システムは上位の経営者に組織を隅々まで展望できるような包括的な概観を提供しているのだが、個々人はそのネットワークのなかでは、隠れる余地などあまり与えられていないのだ」。しかし、これは情報技術によってマネージャーがより多くのデータにアクセスできるようになったことのみならず、データそのものが急に増えてきたことをも意味する。それに、こうした「情報」の大部分は労働者たち本人が提供しているのだ。
つまり学生の課題の採点は、大学間の一貫した基準の維持を目的とする「外部審査官」によって監視されるのだ。
後期資本主義がスターリニズムから引き継いでいるものはまさに、実際の成功よりも、成功の象徴に価値を認めることにほかならない。
象徴界の錯覚・虚構にとらわれないよう、自分の眼のみを信じ続ける者こそが、もっとも間違いを犯しやすい。「自分の眼だけを信じている」冷笑者は、象徴的虚構の有効性、つまり、それがいかに私たちの現実経験を構成しているかを見落としている。
役人とのやりとりで不満がしばしば生じるのは、役人が自分自身で何も決断できないからだ。それどころか彼らは、(大文字の他者によって)つねに・すでに下されている決断を参照することしか許されていないのだ。この関与否定の構造が官僚主義に固有のものだと見抜いたからこそ、カフカは官僚主義について書いた最も優れた作家だった。
大文字の他者の意向の解釈に努める、多かれ少なかれ悪意のある役人しかいない。そしてこの意向の解釈という行為、こうした責任逃避こそが、大文字の他者の姿そのものなのである。
なぜ「データ」がここでカッコに括られているかといえば、情報と呼ばれているもののほとんどが、監査の範囲外では大して意味も応用価値も持たないからだ。エーヴァ・ベルクルンドが述べる通り、「監査によって生成される情報は、監査そのものにつきまとう美的基準を除いてしまえば、誤解を招くほど、あるいは意味をなさないほどに個別の詳細を介き、抽象的である。それにもかかわらず、結果を伴うものなのだ」。
新しい官僚主義は、特定の従業員によって担われる明確で限定的な機能というのではなく、むしろ労働にまつわる全領域に浸透する形で現れる。その結果としてカフカの予想した通り、労働者は自分自身の監査員となり、自らのパフォーマンスを自身で評価するよう求められるのだ。
私たちが行ういかなる自己批判も、あくまで象徴的なものに過ぎず、それに従って行動されることはないのだから、と。あたかも、冷笑的な役人が追従するように、単なる形式的な演習の一環として頭を下げて「自己懲罰」することが、まったく心をくじかせるものではなかったかのように。
ポスト・フォーディズム社会の教室における学生たちの再帰的無能感は、教師たちの再帰的無能感とよく似ている。
第七章
「・・・・・二つの現実が折り重なって見えるとき」
夢作業および記憶障害としての資本主義リアリズム
「現実主義的である」ことはかつて、確かで不動的なものとして経験される現実を受け入れるという意味だったのかもしれない。しかし資本主義リアリズムは、限りなく変幻自在でいかなる瞬間にもその姿を変えることのできる現実に服従するよう、私たちに要求する。
ここでいう「現実」は、デジタル文書における選択肢の多さと似ている。どんな決定も最終的ではないし、つねに訂正可能で、いつでも以前の状態に戻せるのだ。
「これまで起こったわけではないのに、すぐに最近の記億の時系列に収まる出来事」である。この小説の力はこういった回想的な作話 (retrospective confabulations)1 の表現にあるのだが、そこにある仕組みはーー毎晩私たちが夢を見るたびに行うからこそーーとても馴染み深いものであると同時に、極めて奇妙なものでもある。明らかに相互矛盾した物語が連続している、あるいは同じ広がりをもって存在してさえいることを、一体どうして信じることができるだろうか?
私たちの経験する世界は心の内部から投影された唯我論的な妄想だという発想は、混乱よりも安心感を与えるのだが、それは私たちの幼稚的な全能感の夢想に同調するからである。しかし、いわゆる内面性はその存在を虚構的な合意に負っているという考えは、いつまでも不気味な合意を帯びつづけるだろう。
比較不可能なもの、意味のないことを疑いなく受け入れるというこの戦略はつねに、正気を保つための典型的な技術であった。しかし、後期資本主義において、つまり、社会的フィクションの創造と放棄が商品の生産と廃棄とほぼ同速度で繰り広げられる、「これまで信じられれてきたものの一切を寄せ集めた雑色の絵」においては、この技術は特別な役割を担うことになる。
このような存在論的不安においては、忘却が適応戦略となる。
リアリティやアイデンティティがまるでソフトウェアのように更新されていく状況において、記憶障害が文化的懸念の焦点になってきたのは驚くことではない。
いくつかのことを知らないといけない……決断をするためには……でも全てのことを知る必要はないんだ。僕の一部は立ち去って消えるようにならなければ。自分に言い聞かせられるようにならないと、昔そうだったものは、もうそうじゃないって、それにはじめっからそうじゃなかった可能性もある、僕にはその記憶がないから。記憶されなかったことは、存在してなかったも同然だから……その人にとっては。
長期的なものの終焉は、時間軸の上で前方のみならず後方にも及ぶものだ(例えば、マスメディアでの話題は一週間ほど独占的に注目を集めた後にすぐさま忘れられていくように)。しかしまた他方では、これは過剰なほどノスタルジアに耽る文化でもあり、回想モードに身を委ねきり、本物の新しさを創造できないものになっているのだ。
私たちが出発点にしなければならないパラドックスは、社会生活のあらゆるレベルにおける前代未聞の変化速度と、あらゆる物事の前代未聞の標準化との間のーー感情と消費財の間の、言語と建築空間の間のー一等価関係だ。しかしながら後者は前者のような可変性とは両立しないだろうと思われる(中略)ここで明らかになるのは、これほど標準化された社会は今までになかったということ、そして人間的、社会的、歴史的な時間性の流れが、こんなにも均質的に進んだ例えはなかったということだ(中略)したがって、私たちがいま実感しはじめているものは一ーそしてポストモダン性そのものの、少なくともその時間的次元における、より深くより根源的な条件として浮かびあがろうとしているものはーー何もかもがファッションとメディア・イメージの絶え間ない変化へと委ねられるような状況において、これ以降もはや何も変わりようがない、ということだ。
これは紛れもなく、ドゥルーズ=ガタリが述べた資本主義そのものを構成する脱領土化と再領土化の勢力のあいだの闘争をあらわすまた一つの例だ。
新たな記憶をつくることができない、それこそポストモダンの膠着状態を一言で要約できる表現ではないか……。
もし記憶障害が資本主義リアリズムの異常をあらわす説得力のある喩えだとするのなら、夢作業は、その仕組みの滑らかさをあらわすモデルになるだろう。夢を見ている間の私たちは忘れる、しかし忘れたということもすぐに忘れてしまう。だが、記憶のギャップや空所というものはフォトショップ的に補完されるので、私たちがそのために困ったり悩んだりすることはないのだ。
意味の世界を空虚にし、生活を劣化させ根こそぎにし、そして公然と欲望を搾取していくプロジェクトと、意味を固定・強制し、生活の特定の様式を保持させ、そして欲望を抑圧・規制することに集中するプロジェクトとは、いかにして交わりあうことができるのだろうか?
新保守主義的な強い国家とは軍事・警察といった機能に限定され、それは個人の倫理的責任感を損ねてしまうとされた福祉国家へ対抗する形で、自己を位置づけることになったのだ。
第八章
「中央電話局というものはない」
私たちはむしろ、構造の最も包括的な側面こそを問題化しなければならない。つまり、みんなが、そう各個人が気候変動に責任を持ち、各々が少しずつ貢献していけばいいと言うよりも、これは誰の責任でもない、そしてまさしくそのことが問題なのだと言うべきだろう。環境破壊の諸原因は非人称的な構造である。それは様々な影響を及ぼしつつも、主体として責務を果たしていけるようなものでは決してないのだ。ここで必要とされる主体、つまり集団的な主体は存在しないが、危機は、私たちが現在直面している世界的危機の全てがそうであるように、そのような主体の構築を私たちに求めている。しかし、倫理的な直接行動へのアピールによって、英国の政治文化においては少なくとも一九八五年来ーーつまり、炭鉱ストライキの抗争がライブエイド 〔Live Aid〕の合意的感傷性に変わって以来しこのような主体の出現はつねに先送りにされてきたのだ。
悪習は構造から生じ、そして構造が残存する限り悪習が自らを再生産していくことは確かである。企業の陰謀に固有の、正体不明で中心をもたない非人格性を浮き彫りにすることにこそ、パクラの映画の力がある。ジェイムソンが観察しているように、パクラの『パララックス・ビュー』は企業界の特殊な情動的色調を巧妙に描き出しているのだ。
行動の責任を問われ得るのは個人のみであるにもかかわらず、それら不正な行為や過ちの原因は組織的・体系的であるというこの手詰まりは、単なる真実の隠蔽ではない。それがまさに、資本主義の点を指し示しているものなのだ。どのような行為主体性によって非人格的構造は規制・管理され得るだろうか?企業構造を罰するのはいかにして可能なのか?もちろん法的には、企業組織は個人と同様に扱うことができる。だが問題は、企業は実体をもつものの人間の個人とは異なるがゆえに、企業に対する処罰と個人に対する処罰とのあいだのアナロジーは必然的に不十分だということにある。いずれにせよ、企業組織が万事の裏で糸を操る深層的行為者だというわけではない。それらはあの究極的な「主体ならざる原因」によって制約されているのであり、またそれを表現しているにすぎないーーすなわち、資本を。
第九章
マルクス主義のスーパーナニー
自由とは、私たちが己の行動の真の原因を理解することができ、私たちを陶酔させ有頂天にさせる「悲しき情念を切り捨てて考えることができるとき、そのときにのみ獲得され得るものである。
人がいかに減量できるか、家をどう飾り立てるべきかを指示するのは許容の範囲内だが、なんらかの文化的改善を呼びかければ、抑圧的だの、エリート主義だのとみなされる。ここでエリート主義的で抑圧的とされるものは、禁煙者がおそらくは「自らの利害に無自覚である」とか、もしくは「それに即した行動をとれない」という憶測のもとに、第三者が当事者の利害を本人よりもよく把握できるだろうといった考えの上で成立するものではない。そうでなく、〔社会的〕合意の上にあるとされている価値を反映するような、特定の利害のみが重視されていることの方が問題なのだ。つまり減量したり、家を装飾したり、または自分の見た目を良くすることは並べて、「合意的感傷性」のレジームに属した行為なのだ。
今のテレビはもはや、視聴者に何を感じるべきか教えるものだ。もう、何を考えるべきか教えるものではない。
『イーストエンダーズ』〔のテレビドラマ〕からリアリティ番組に至るまで、あなたは他人の感情を旅する。そして編集によってテレビは、みなが合意できる感情のあり方をやさしく伝えてくるのだ。
これはまったくもって、道徳教育のシステムではなく、感情教育のシステムなのだ。
モラルは感情によって置き換えられた。この「自我の帝国」においては、まったく唯我論的な状態を脱することなく、誰もが「同情できる」ものなのだ。
カーティスは続ける。
人々が何に苦しんでいるのかといえば、それは自分の中に閉じ込められていることだ。個人主義の世の中では、誰だって自分の感情から、自分の想像から出られない。公共放送としての僕たちの仕事は、自分自身という境界の外側に人々を連れ出してあげることだ。そうしないかぎり僕らに未来はない。
自分の中に閉じ込められている。自分を満足させることが、彼の仕事なんだ。
ポストモダン時代のメディアにおける参加 (participation)の相互受動的なシミュレーション、すなわち MySpaceやFacebookにおけるネットワーク上のナルシシズムからは、これまではたいてい反復的で、寄生的で、そして同調主義的なコンテンツが生まれてきた。いっけん皮肉なことにも思われるが、メディア関係者がパターナリスティックであることを拒否した結果が、驚くべき多様性に富んだボトムアップの文化ではなく、ますます幼稚化された文化の誕生につながった。対照的に、読者・視聴者を成人として扱い、複雑で知的要求の高い文化的生産物に付き合えるだろうと想定しているのは、パターナリスティック文化のほうなのだ。(市場調査のためのフォーカスグループや資本主義のフィードバックシステムが、非常に人気の高い商品を生み出す場合でさえ失敗してしまうのは、人々が自分の欲しいものを知らないからなのだ。これは、人々の欲望がすでにあるけれども、彼らに姿を見せないからというだけではない(もちろん、その場合が多いのだが)。むしろ、もっとも強い欲望の形はまさに奇妙なもの、想定外のもの、変なものへ向けられるからだ。こうしたものは、人々をすでに満足させているのとは異なる何かを与える心構えをもつ芸術家やプロのメディア制作者、つまり、ある種のリスクを背負う覚悟のある者によってしか提供できないのだ。すればマルクス主義のスーパーナニーとは、私たちに制約を設け、私たち自らが認識できないときにも私たちの利害に沿って行動するのみならず、それと同時に、奇妙なものや、それを求める私たちの欲求に賭けていくためにリスクを背負う覚悟のある者だといえるだろう。よりによって資本主義の「リスク社会」において、このようなリスクを負う傾向が、重苦しい中央集権的な社会的合意の戦後文化よりもはるかに弱くなっているということもまたひとつのアイロニーだろう。
真の新しい左派の目標は政権を握ることではなく、政府を一般意志に従属させることだということを理解しなければならない。当然ながらこれは、「一般意志」という概念そのものを解させ、また、個人とその利害の集合体には還元できない「公共圏」といった概念を復活、および改良することを伴う。資本主義リアリズムの世界観である「方法論的個人主義」は、公共のような諸概念を「亡霊」、つまり中身を介いた実体のない抽象観念だとみなしている点で、アダム・スミス、ハイエク、そしてマックス・シュティルナーの哲学を前提としている。実在するのは、個人(とその家族)のみである。こうした世界観の失敗の兆候はいたるところで散見される。ティーンエイジャー同士の発砲事件があたりまえとなり、病院では病原性の強い超細菌が培養されるようになった、崩壊状況にある社会圏では、結果(効果)がその構造的な原因と結びつけられることが必要だ。「大きな物語」に対するポストモダン思想の疑念とは反対に、私たちは、これら問題が孤立した偶発的なものではなく、むしろ単一の体系的な原因による作用だということをより明確に示さなければならない。その原因とは、資本である。私たちは初心を貫き、存在論的にも、地理学的にも遍在化している資本に対して、戦略を立てなければならない。
新自由主義は必然として資本主義リアリズムであったが、資本主義リアリズムは必ずしも新自由主義である必要はないということを、いまなら私たちは理解できる。自らを救うべく、資本主義は社会民主主義モデル、もしくは『トゥモロー・ワールド』的な権威主義へ、その姿を変えることができるだろう。資本主義に対して一貫性、そして信用性のある代替案がない限り、資本主義リアリズムは私たちの政治経済的無意識を支配し続けるだろう。
左派の悪癖のひとつに、いつまでも歴史的な討論を繰り返すこと、自らが真に信じる未来のために計画を立てて準備するのではなく、クロンシュタット〔の反政府蜂起、一九二一年〕や〔旧ソ連の〕新経済政策に立ち戻り続けるという傾向がある。従来の反・資本主義的な政治組織が失敗したからといって失望する必要はないが、それでも失敗の政治学、打ちのめされた周縁性という快適な立ち位置への、ある種のロマン的な愛着には背を向けて前に進まなければいけない。信用危機はチャンスである。けれども、それをとてつもなく思索的な挑戦、過去への回帰ではない再生への拍車として扱わなければならない。バディウが力説したように、有効性のある反・資本主義とは、資本への反発でなく競争相手でなければならない。資本主義以前の領土性への回帰は不可能なのだから。反・資本主義は、資本の世界主義に、それ自身の正当な普通性でもって対抗しなければならない。
ものごとを政治化していくには、「当たり前」とされているものを「誰もが勝手に変えられるもの」へと変えていくことのできる政治的な行為主体が必要だ。もし新自由主義がポスト六八年世代の労働者の欲望を内包することによって勝利を得たとすれば、新しい左派は新自由主義が生み出しておきながら満たせないでいる欲望を足場とすることから始めることができるだろう。例えば、官僚主義の大規模の削減など、新自由主義が著しく失敗してきた問題に、左派こそが取り組めるのだと主張しなければならない。労働とその主導権をめぐって新たな闘争が必要なのだ。(経営者による管理に抗い)労働者の自立性を主張すること、そして同時に、(ポスト・フォーディズムの労働形態の主要な特徴となってしまった過度の監査などの)特定の種類の労働を拒否することが求められる。これは勝つ見込みのある闘争である。しかし、新たな政治的主体が結合することが条件だ。
必要なのは、経営側によってしか認識されない労働形態、すなわち、教育の提供には何の影響もないが、管理主義にとっては不可な存在条件である自己管理の様々な仕組みから戦略的に離脱する、ということである。
資源や財を配給しようという考えほど、成長を高めようとする資本主義の構造的要請と相反するものはない。しかし、消費者による〔購買の〕自制や市場のみでは、環境破壊は阻止されないだろうということも、不快なほど明瞭となってきた。この新たな禁欲主義については、リビドー的に、そして実務的に裏づける必要がある。オリバー・ジェイムス、ジジェク、そしてスーパーナニーの例が明らかにしたように、もし限りない自由が不幸や不信へつながるのであれば、制約は欲望を弱めるというよりも、むしろ駆り立てる可能性が高い。いずれにせよ、何らかの形での割当は不可避だろうが、集団的に管理されるものになるのか、もしくは手遅れになってから、権威主義的な手段によって押し付けられるのか、それが問題だ。この集団的な管理が果たしてどのような形をとるべきかという問題もまた未解決であり、実践的かつ実験的な手法によってしか解決できないものである。
歴史の終わりというこの長くて暗い闇の時代を、絶好のチャンスとして捉えなければならない。資本主義リアリズムの蔓延、まさしくこの圧迫的な状況が意味するのは、それとは異なる政治・経済的な可能性へのかすかな希望でさえも、不相応に大きな影響力を持ち得るということだ。ほんのわずかな出来事でも、資本主義リアリズム下で可能性の地平を形成してきた反動主義の灰色のカーテンに裂け目を開くことができる。どうにもならないと思われた状況からこそ、突然に、あらゆることがふたたび可能になる。
「諦め」の常態化に抗うーあとがきに代えて
セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉
「there is no alternative」
見通しのつかないものを唯一の「現実的」な選択肢と見立てることで異論の可能性を予め除外してしまうこのスローガンは、現在へ至る新自由主義時代の幕開けを飾る言葉となった。だが今、その含意はもう単なる政治的レトリックに留まるものではない。むしろ冷戦終結後、そして二〇〇八年の金融危機を経てもなお、資本主義社会と異なる生き方の提示を事実上諦めてしまった政治文化の停滞感を
マークの考える「資本主義リアリズム」は端的にいえば、ネオリベラル資本主義が唯一の持続可能な政治経済システムであると了解し、その地平の彼方を求める、いや想像することさえもが不可能になってしまった、つまるところは「この道しかない」ということが謎の常識と化してしまった世界を指し示している。こうした「現実主義」に疑問符をつけることが本書の出発点である。
資本主義のクリティーク、もしくは従来的なカウンターカルチャーそのものが、欲望を原動力とする資本主義の枠組みにあまりにも容易に呑み込まれ、消費可能な身振りのひとつとして回収される様子を、私たちは充分すぎるほど目にしてきた。クリティークは批評としての機能を失い、サブカルチャーと趣味をめぐる記号論的差異化のゲームとなる。エコ消費者や地域アートの活動家たちのように、環境・地域問題への意識はあるものの、その取り組みは往々にして問題の構造的原因である資本主義に対して盲目的であり、市場原理に即した「良識」の範囲内に解決策を求めがちだ。特に二〇〇〇年代以降、このような牙を抜かれた左派の例は枚挙に暇がない。いまさら資本主義を直接攻撃するなんてベタじゃないですか?まさしくこの物分かりの良さを装った挫折感は、「資本主義リアリズム」の基調に他ならない。ベタに夢を見ないゆえに絶望しない私たちは、この現代社会を生き抜く力をかろうじて身につけてきたのだが、新しい未来を構想する力はそのうち、見えないどこかへ委託されてしまったのではないだろうか。
「この道しかない」といわれてきたネオリベラル資本主義は現在、いたるところで正当性の危機に瀕しているが、その弱点に付け込むのは保守反動主義であり、またはドナルド・トランプのような人物に象徴されるネオ権威主義過激派ばかりだ。こうした不安に乗じる政治の復興は、批評文化の脱政治化、ユートピア的想像力の欠如、まさしくマークによって描き出された後期資本主義の文化的地平、あるいはその地平のなさが可能にしてきたのではないだろうか。
このような敗北感の常態化によって自らの条件を再生産していく「資本主義リアリズム」に対し、マークは、出口の見えない従来的なアイロニーの身振りに決別し、現状維持の範囲を超えたポリティクスの可能性を敢えて信じるよう私たちに促す。そのためには確実なものとして経験される「現実」の内在的矛盾をあばき出し、リアリズムの自明性を解体するという地道な作業から始めなければならないという。
社会の開放を目指す政治はつねに「自然秩序 あたりまえ」という体裁を破壊すべきで、つねに必然で不可避と見せられたことをただの偶然として明かしていくと同様に、不可能と思われたことを達成可能だと見せなければならない。
後期資本主義における不幸や葛藤を自己完結的な「個人」の問題として捉える限り、その正体はいつまでたっても明かされないだろう。個人の内面性や感情のレベルから、それを形成するマクロかつミクロレベルの社会政治的環境に対して目を開いたとき、私たちは初めてマークの視点を、自らの現実に即して理解したことになる。それは、ルサンチマンや冷笑主義、感傷性に身を屈してしまうことなく、私たち各自が現前するリアリティに立ち戻り、すでに失われた(と思われた)未来の姿を、いかに可能性の地平へと取り戻せるのか、その問いを自らに課し続けていくための知性である。そう、諦めの常態化に抗うために。
解説
マーク・フィッシャーという亡霊
木澤佐登志
私たちは資本主義社会の中で暮らしている。それを「あたりまえ」のこととして、資本が生み出すものに寄りかかりながら日々を平穏に(あるいは悪戦苦闘しながら)過ごしている。私たちは資本主義がある日突然終わるなどと想像しない(できない)し、資本主義は「持続可能なもの」であると漠然と信じ込んでいる(信じ込もうとしている)。こうして、私たちは変化のない資本主義という「リアル」を自分たちも気づかないまま再帰的に強化している。
それは目に見えず、掴みどころがなく、流動的な、奇妙で得体のしれない行為主体として私たちの行動を繰り人形のように操る。寄りかかっているのは私たちではなく、むしろ資本のほうが私たちに寄生しているのだ。
フィードバックはフィードフォワード(feedforward)へと変化し、事後的に反応に応じるのではなく、あらかじめ反応を規定するようになる。このようなハイパースパイラルに沿って経済が機能していることは、もはや指摘するまでもない。資本はますます、現実の何か具体的な参照対象をもたず、マルクスがいうところのいっそう「つかの間(fleeting)」の形態(先物取引など)へと移行している。かつてのように「固体」だったものは、すべて抽象的かつヴァーチャルなものへと溶解していく。
ドゥルーズ&ガタリによる実り多くも曖味な概念である「虚構的な量(fctionalquantities)」は、この直感をさらに強化する。それは、最的に把握しうる虚構という考え方と、虚構として考えねばならない量という考え方の双方を含み込んでいる。
量以上に「現実的」なものがあるだろうか? 労働価値説のようなマルクス的参照点を剥ぎ取られた資本は、まさに虚構的な量として機能するーーそれ自身、アミミズム的な行為主体性(agency)を伴う存在であることは言うまでもない。
結果として、資本は実体を離れ、先物取引のような抽象的な形で展開し、リアルな価値はますます不確かなものへと変容していく。
現実と虚構、実体と抽象の境界に位置しながら、あたかも自律的に振る舞う死んでいるとも生きているともつかない、亡霊的なエージェンシーとしての資本。ある種のホラーやエイリアン的なものとも近似していくような資本に対する捉え方を、フィッシャーは晩年まで一貫して保持していたように見える。
フィッシャーによれば、「ぞっとするもの」とは、私たちには捉えがたい何らかの「エージェント」が作動していることをきっかけに生み出される情動だという。
フィッシャーは、「ぞっとするもの」は未知なるものに関わっている、と述べる。そのことについての知識が得られてしまえば、ぞっとするものは消えてしまう。たとえばコンテナ港は、「脱物質化」された資本主義という幻想を促進する一方、実際にはある時期に特定の目的で建設され、人間の労働によって機能・維持されているという「きわめて物質的なインフラの一部」としての側面も持つ。このことは、冒頭の引用で示された「必然で不可避と見せられていたことが単なる周然的なものでしかないことを明らかに」することとも関わってくる。
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ジェイムソンによれば、ポストモダニズムは「歴史感覚の崩壊」を特徴とする。つまり、大きな物語や歴史的な進歩という観念が麻痺し、その代わりに断片化された歴史の再利用(パスティーシュ)や表層的な引用が蔓延るようになる。それはある種の集合的な前向性健忘の状態に近い。
新たな記憶=歴史を生み出すことができないという感覚。失われた未来への喪失感。フィッシャーは、このジェイムソンと共有する感覚ーーすなわち「かつて存在していたはずの未来」が実現されずに失われ、結果として現在の文化が過去の亡霊に囚われてしまっているという感覚ーーを「憑在務(Hauntology)」という概念で捉え直した。
フィッシャーは前述のインタビューの中で、ソ連崩壊以後、資本主義は確信を持って未来を手にするのではなく、未来の可能性を否定することによって勝利を収めてきた、と述べている。つまり、「今までと同じことの繰り返しに期待するしかない」と思わせるように、私たちは誘導されてきた。CPUのスペックは年々向上し、iPhoneの新モデルは毎年律儀に出る。だが、それだけだ。
フィッシャーは言う。憑在論は、このような未来の封鎖に対しての異議申し立てを表現しているのだと。「憑在論という概念の重要性のひとつは、失われた未来、つまり、一度も起こったことはないけれど、起こりえたかもしれない出来事について考えることにあります」
「かつての未来像(=オルタナティブな可能性)」が実現されず、過去のノスタルジーが繰り越し参照されている状態は、資本主義リアリズムが生み出す鬱屈とした閉塞感とも深くリンクしている。未来が閉ざされているため、私たちは現在を反復し続けるしかない、言い換えれば「この道しかない」ーーというわけだ。
では、私たちの現在に内在する可能性や、これまで抑圧されてきたオルタナティブな未来を再発見=再創造し、「もうひとつの未来」へと通じる回路を開くきっかけは、いったいどこにあるのだろうか。
少なくとも今の私たちは、欲望のレベルで言えば、資本主義の内側で生きている、生きざるを得ないのだ。フィッシャーは「疎外の克服」という幻想を捨てるべきだと促す。
フィッシャー=リオタールは「疎外されていない領域は存在しない」と繰り返し主張する。その意味では、資本主義に〈外部〉は存在しないことになる。これはフィッシャーが一種のニヒリズムに陥ったことを意味するのだろうか。
おそらくそうではない。フィッシャーがここで考えようとしているのは、むしろスピノザ的な「内在主義」、すなわち外部からの力が変革を推進するのではなく、現在の社会構成に内在する様々な力や欲望を肯定し、それらを資本主義の限界を超えて展開させることで資本の論理を超えた社会関係や生産形態の可能性を引き出す思想である。
「私たちは誰もが加速主義者だ」と。
資本に侵されていない、言い換えれば「疎外」されていない無垢な領域を探し求めるのではなく、資本に完全に浸った状態から始めなければならないのだ。その上で、私たちが今いる場所を変えるための、新たな想像力を働かせなければならない。
資本主義は、封建主義からの脱出として必然的に失敗するものであり、本来なら身分制を伴う社会的階層化を破壊するはずが、むしろ階級構造のなかで社会的階層化を再編成してしまう。ドゥルーズとガタリによる「プロセスを加速せよ」という呼びかけが意味をもつのは、このモデルに基づいてこそである。それは、資本主義がそれによって崩壊することを期待して、資本主義のあらゆる要素を手当たり次第に加速させることを意味しているのではない。むしろ、資本主義がとうしても妨げざるを得ない脱階層化のプロセスを加速させることを意味しているのだ。
解説
幽霊の音楽批評家
毛利嘉孝
音楽批評家としてのマーク・フィッシャー
フィッシャーによれば、「鬱病」と「景気の落ち込み」が英語で同じように depressionという語で示されるのは決して偶然ではない。鬱は、感情を商品化し、感情の動きを労働力として搾取しようというポストフォーディズム的な生産様式が必然的にもたらすものなのだ。
時間はリニアに進むものでもなく、音楽も単純に過去から未来へと進歩するもではない。古い音楽の中にたえず新しい発見があり、未来は過去の中で更新される。状況はたえず厳しいが、そこには奇妙なディストピアのようなユートピアが「幽霊」のように漂っている。
そもそも、一般的に言ってカウンター・カルチャーと、コミュニズム(共産主義)という言葉から連想される左翼文化は相性がよくない。今日の世間的なイメージでは、しばしばヒッピーという言葉に統一されるカウンター・カルチャーは快楽主義的で刹那的、自己中心主義の中流階級文化であり、左翼文化は理論的といえば聞こえはいいが、時に過度に教条的で道徳的で、ストイックな知識人階級と労働者階級の野合だった。資本主義リアリズムは、アシッド・カルチャーを受動的なドラッグ文化と享楽的な消費文化へと矮小化し、社会主義や共産主義の文化をオーソドックスな議会政治の中に飼い慣らして骨抜きにするか、そのもっともラディカルな部分を選択肢の外部へ追い出すことで、「オルタナティヴは存在しない」と信じ込ませようとしてきた。
『資本主義リアリズム』マーク・フィッシャー/著、河南瑠莉・セバスチャン・ブロイ/訳より抜粋し引用。