mitsuhiro yamagiwa

2023-01-12

非人格化?

テーマ:notebook

31 活動の伝統的代替物としての製作

 活動の災いは、すべて、人間の多数性という条件から生じているのだが、この人間の多数性というのは、公的領域である出現の空間にとっては必要不可欠な条件である。

 この多数性を取り除こうとする企ては、必ず、公的領域そのものを廃止しようとする企てに等しいということになる。

 近代になって、人間は自分の作るものだけを知ることができ、人間のいわゆるいっそう高い能力は製作に依存しており、したがって人間はなによりもまず〈工作人〉であって、「理性的動物」ではないという確信が生まれた。 

32 活動の過程的性格

 私たちがどの程度まで、文字通り、自然の中へ活動し始めているかということは、おそらく最近ある科学者がたまたま述べた言葉の中に最もよく示されているだろう。

 「基礎研究とは、私がなにを行なっているのかを知らない事柄を行なっている場合である」。

 人間は、たしかに一方では、何か新しいことを始める能力をもっているのに、同時に他方では、新しく始めた活動の帰結をコントロールできないどころか、予見することさえできないからである。このため、結局、人間存在というのは不条理であってほとんどむりやりに結論づけざるをえないように思える。しかし、実をいえば、人間のリアリティとその現象的な証拠を考えれば判るように、活動者は自分の行為の支配者ではないという理由で活動する人間の自由を否定するのは、ごまかしであり、それは、逆に、人間の自由という動かしがたい事実のゆえに人間の主権は可能であると主張することがごまかしであるのと同じで、どちらも真実ではない。 

 活動の能力は、それ自身の中に、非主権無能力を超えて活動を存続させうる一定の潜在能力を秘めていないかどうかということである。

33 不可逆性と許しの力

 未来の混沌とした不確かさ、つまり、不可予言性にたいする救済作は、約束をし、約束を守る能力に含まれている。

 自分の行なった行為から生じる結果から解放され、許されることがなければ、私たちの活動能力は、いわば、たった一つの行為に限定されるだろう。そして、私たちはそのたった一つの行為のために回復できなくなるだろう。

 他方、約束の実行に拘束されることがなければ、私たちは、自分のアイデンティティを維持することができない。なぜならその場合、私たちは、なんの助けもなく、進む報告も判らずに、人間のそれぞれ孤独な心の暗闇の中をさまようように運命づけられ、矛盾と曖昧さの中にとらわれてしまうからである。この暗闇を追い散らすことができるのは、他人の存在によって公的領域を照らす光だけである。

 独居や孤立の中で行われる許しと約束は、リアリティを欠いており、一人芝居の役割以上のものを意味しない。

 つまり、人は自分自身を支配する程度に他人を支配するのである。これと同じように、許され、約束される程度と様式は、人が自分自身を許し、自分自身にのみ関係のある約束を守る程度と様式を決定する。

 破壊が製作と結びついているように、許しは活動と密接に結びついているというもっともな議論は、おそらく、行われた行為の取消は、行為そのものと同じような暴露的性格を示しているように見えるという許しの側面からきているのであろう。

 近代になって尊敬が失われたということは、あるいはむしろ尊敬というものは称賛や高い評価が与えられるからこそ生まれるという確信は、公的・社会的生活の非人格化が進んでいる明白な印である。

 ここでも一般に活動と言論の場合と同じように、私たちは他人に依存しているのである。なぜなら私たちは、他人の眼には差異あるものとして現われながら、その差異は、自分には知覚できないからである。自分の内部に閉じ込められている限り、私たちが自分自身の失敗や罪を許すことができないのは、許さるべき当の人物の経験を欠いているからである。

34 不可予言性と約束の力

 第一の、人間は自分自身に頼ることができない、あるいは自分自身を完全に信じることができない(それはどちらも同じことである)というのは、人間が自由にたいして支払う代償である。そして第二の、人間は自分の行為の唯一の主人たりえず、行為の結果について予め知ることができず、未来に頼ることができないというのは、人間が多数性とリアリティにたいして支払う代償であり、万人の存在によって各人にそのリアリティが保証されている世界の中で他人と共生する喜びにたいして支払う代償である。

 約束をする能力の機能は、人間事象のこの二重の暗闇を克服することである。そのようなものとして、約束の能力は、自分の支配と他人にたいする支配に依拠している支配形式に取って代わる唯一のものである。つまり、それは、主権のない状態のもとで与えられた自由の存在と正確に対応している。

 私たちは以前に、権力は、人びとが共に集合し「協力して活動する」とき生まれ、人びとが分散する途端に消滅すると述べた。人びとが集合する出現の空間やこの公的空間を存続させる権力と異なり、人びとを一緒にさせておくこの力は、相互的な約束あるいは契約の力である。主権というのは、人格という個人的な実体であれ、国民的という集合的な実態であれ、孤立した単一の実体によって要求される場合、常に虚偽である。しかし、相互の約束によって拘束された多数の人びとの場合には、ある限定されたリアリティをもつ。

 それは、同意された目的によって結ばれ、一緒になっている人びととの団体の主権であり、そこで交わされた約束は、この同意された目的にたいしてのみ有効であり、拘束力をもつのである。

 そして、ある程度までこれは真実である。人間事象は、そのまま放置しておけば、可死性の法則に従うだけだから。

 自然の観点から見ると、生から死まで人間の寿命が描く直線運動は、循環運動という一般的な自然法則からの特殊か逸脱であるかのように見える。これと同じように、活動は、世界の進路を決定しているように思われる自動的過程から眺めると、一つの奇蹟のように見える。自然科学の言葉でいえば、それは「正規に起こる無限の非蓋然性」である。実際、活動は人間の奇蹟創造能力である。

 人間事象の領域である世界は、そのまま放置すれば「自然に」破壊する。それを救う奇蹟というのは、究極的には、人間の出生という事実であり、活動の能力も存在論的にはこの出生にもとづいている。

『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。