mitsuhiro yamagiwa

第2章 記憶としての技術

◇ プラトン著『メノン』ーーヒュポムネーシスをめぐる思索の出発点

 魚は水を、自らの生きる環境[要素]でありながら見ることができないのと同様に。

 われわれが潜在的に哲学する存在であるのは、われわれに人工的な記憶が与えられていて、これが世代から世代への問いの伝達を支えている、まさしくその限りにおいてなのですーーなぜなら人工的な記憶により時間の物質化が可能になるからです。時間の間隔化、空間化、保存、再活性化、再時間化、再伝達あるいは再構築。一般的には時間の再生成と変形(ジャック・デリダは差延と名付けますが)でもありますが、これが人工的な記憶により可能になるからですーーこの問いの伝達とともに知は「進歩」し、「精神」は自らの歴史性を展開します。

◇ ヒト化=生存手段の外在化

 精神は物質に還元されるのだと主張するのではなく、物質は精神の条件である、語のあらゆる意味においてその条件であると主張する点で、いわば「唯心論的」唯物論です。

 人間は非生物学的器官を用いて、つまり技術が宿る人工器官を用いて生存闘争を展開する生き物なのです。

 ルロワ=グーランは、技術は記憶の伝達を仲介すると述べています。

 ヒト化は外在化のプロセスだと言えます。

 分化の場はその「内部環境」の外で生ずるのです。

◇「第三の記憶」としての後成的系統発生

 個体記憶の中に未決定の余白があるため、神経細胞の可塑性があり、さまざまな学習を可能にしているのです。しかし人間には、動物にはない第三の記憶があります。そしてこの第三の記憶を支え、構成しているのが技術なのです。

 技術的な動作が刻み込む組織化は無機物を通じて伝達され、生物の歴史において初めて、各個体が獲得した知を生物学的ではない手段によって伝達する可能性が開かれます。以上が、技術が人間の記憶と切り離せない理由です。この記憶が人間の特徴、つまり人間の精神をなすのは、この記憶が世代から世代へと伝わり得るからなのです。個体の経験を世代間で直接伝達させることこそが動物界には許されないことであり、だから動物には文化も精神もない(より一般的な言い方をするなら、獲得形質は遺伝しない)のです。

 存在するという言葉が、空間と時間の中で位置を占めることを意味するなら。当然のことながら、点は空間に属しません。点は空間の条件[空間を成り立たせるもの]なのです。実際、点が空間に属するとは言えません。なぜならもしそう言ってしまうと、その点はすでに面であることになります。ユークリッドが言うように、点とは部分を持たない何かであり、線とは幅のない長さです。そして面もまた、幾何学的な意味では存在しません。面は体積のない広がりだからです。

 幾何学とは空間の知であり、空間とは直観の形式である。アプリオリな形式としての空間を考えるためには、図形に代表される投影の能力が前提になるのです。

 実際、幾何学とは幾何学者同士の対話ですーーつまり自身と対話するという意味で、距離を隔てて[距離を通じて]話すように考えることができる、さらには時を隔てて[時を通じて]かつ解釈学的に、差異を生み出す反復の内で考えること。

内在化の前提条件としての外在化

 言語能力と技術は同じ外在化のプロセスに属し、ルロワ=グーランが指摘するように、生命の歴史上かつてなかった一つの現実の、二つの側面なのです。

 いかなる内在性にも先立たれずーーそれどころか直接的に内在化を引き起こす外在化、つまり常に同時に内在化でもある外在化です。この点から見ると言語は、本質的に技術的現実と結びついています。

 この外在化の二重の面を私はテクノ- ロジックな[技術 – 論理的な]面と呼びます。一方、内在化のフェーズは常に忘却されていることにより、根源的な外在性を忘却することも可能にしますが、それは魚には水が見えていないーーなぜなら魚は水の中でしか物を見ることができないーーのと同じです。

 しかしプラトンに反して私の考えでは、このすでにあるものは本質的に一つの外部である、そしてこの外部が世界であり、その構成からしてこの外部は、内部の生をその変遷につれて修正する後成的系統発生の条件に従っています。一方「内部」は外部を内在化しますが、しかし内在化しつつ外部を忘却します。自らの操作を忘却することで自らの知を順化させるのです。たとえば数の考え方は、元は運動機能と身体に関わるシステムであり、長い時間をかけて学び取られた動作の総体であった(指を折って数える、次に算盤あるいは九々の表を使って計算する、最終的には頭の中で計算する)のが、次いで暗算という形で、身体動作という起源を忘却しつつ同化したものです。

『偶有からの哲学 ― 技術と記憶と意識の話 』ベルナール・スティグレール/著、浅井幸夫/訳より抜粋し引用