mitsuhiro yamagiwa

2022-01-06

言明された消失

テーマ:notebook

懐疑主義における弁証法的なもの

 思考するとは、しかし、この区別されたものがこのような本性を有しているしだいを見とおすことなのだ。思考とはつまり否定的な実在であり、しかも単純なものとして否定的実在なのである 。

懐疑主義とこころの平静

 愚行とはつまり自分とひとしいものである自己意識という一方の極と、偶然的で混乱し、また混乱させる意識という他方の極とのあいだを行ったり来たりするということである。

 意識が言明するのは絶対的な消失であるいっぽう、この言明〔そのもの〕は存在している。だからくだんの意識とは、言明された消失である。

勝利なきたたかいとしての不幸な意識

 高められてゆくことは、かくして直接的にその反対のものを意識することである。すなわち、じぶん自身を個別的なありかたにおいて意識することなのだ。

不幸な意識における欲望と労働ならびに享受の次元

 現実はむしろ意識自身が存在しているとおりのもの、つまり二つに引き裂かれた現実である。現実がそれ自体としてはなにものでもないというのはその一面であるにすぎず、現実は他面からすればしかしまた、神聖化された世界でもある。現実とは不変的なもののとる形態であって、それは不変的なものが個別性をそれ自体としては保持しているからだ。

不変的な意識の犠牲と、個別的な意識の感謝

 つまり不変的な実在は、じぶんでじぶんを突きはなし、かく突きはなされたものを能動的なはたらきに委ねるのである。能動的な力はここで威力としてあらわれ、その威力のなかで現実は解体される。

意識の不幸と個別性の廃絶

 意識はいつまでもそこに滞留することになり、つねにじぶんが不純なものとさせられているのを目撃するのだ。同時に意識が尽力する内容はといえば、本質的なものどころか、卑しいかぎりのものであって、普遍的なものであるかわりに、ひどく個別的なものである。だから私たちが見てとるところはただ、じぶんとじぶんの卑小な行為に制限されて思いわずらう、不幸にしてみじめな人格なのである。

「自己意識」の段階から「理性」の段階への移行

 理性とはつまり意識が確信したありかたなのであって、その確信しているところとは、意識はその個別性においてそれ自体として絶対的なものであり、ことばをかえればいっさいの実在性であるというものなのである。

『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。