mitsuhiro yamagiwa

2022-08-11

観念の通過

テーマ:notebook

第 8 章 映画の偽の運動

 映画は、永遠的な過去の芸術であり、それは過去が、通過によって成立するという意味である。映画は訪問〔visitation〕である。つまり、見た、あるいは聞いたはずのものの観念が通過する限りにおいて残存するのだ。可視的なものの内側で観念の通過との接触を組織すること、これが映画の操作であり、その可能性は、一人の芸術家による自らに固有の操作によって発見される。

 (観念〉は分離可能なものではなく、それはそれが通過するなかでのみ映画にとって存在する。〈観念〉それ自体が訪問なのである。

 詩は、言語をそれ自体に向けて休止させることなのである。

 切断の単位はショットやシークエンスのように、結局、時間の尺度のなかにではなく、隣接、想起、強調あるいは断然といった原則のなかで構成されるのであり、このことに関する真なる思考は運動というよりむしろ一つの位相なのである。

 映画は不純な芸術である。それは、諸芸術のなかの、まさしく寄生的で脆いプラス-ワンなのである。しかし、その現代芸術としての力とはまさに、あらゆる観念の不純性から観念をそれが通過するときに作り出すことなのだ。

 映画批評は常に、感情移入についてのおしゃべりと歴史学的にテクニックを見ることのあいだで宙づりになっているのがよく分かる。物語(避けようのない小説的な不純性)を語ったり、俳優陣(演劇の不純性)を褒めちぎったりすることだけが問題となっているのでない限り。

 批評は質を名づける。しかし、それにもかかわらず、批評はそれ自体曖昧過ぎるままなのである。芸術は最良の批評が想定するものよりも稀有のものである。

 イデオロギー、そのなかで常に真の芸術は一つの抜け道である。

 過去に作られた芸術的な作品に適用されるのは規範ではないだろうか?

 したがって芸術的確信という無条件のコミットメントのなかで映画作品について語ることになるのだろうが、それは、作品を確立するためなのではなく、そこから一連の帰結を引き出すためなのである。規範的で曖昧な判断(「これはよい」)あるいは弁別的な判断(「これは優れている」)から、公理的な態度へと移行することだと言えるだろう。これは、ある一つの映画作品は思考にとってどのような効果をもたらすのかを問うものである。

 カット、ショット、包括あるいは局所的運動、色、身体的な行為項、音響、などといった形式に間する考察は、これが、〈観念〉に「触れること」、観念の生まれつきの不純さを捉えることに貢献する限りにおいてのみ挙げられなければならない。

 私たちの思考はここでは瞑想的なものではなく、それ自身突き動かされ、〈観念〉を捕らえるというよりはむしろ〈観念〉を伴って旅をする。ここから私たちが引き出す帰結によれば、まさしく思考とは、〈観念〉を横切る思考-詩の可能性であり、それは、切り抜きというより喪失することによる把握なのである。

 それは、映画作品を映画作品として語るということである。というのも、作品が一つの〈観念〉の訪問を実際に組織するときーーそしてこれは、私たちがそれについて語る以上、私たちが想定することであるーー、作品は常に、一つあるいは複数の他の芸術に対して免算あるいは欠如の関係のなかにあるからなのだ。欠如の支持体がもつ完全さではなく、欠如の運動を掌握するということは、最もデリケートなことである。

 したがって、公理的な判断に従って考察される映画作品とは、撮影と編集にしたがって観念の通過を展示するものである、ということを主張しなければならない。

 タチの『プレイタイム』の冒頭が、群衆の動きと、原子の構成と呼ぶことのできる無内容さのあいだに作り上げる弁証法的なものを見ても分かることだろう。それによってタチは、空間を不動の通過のための条件として扱っている。映画作品を公理的に語るということは、常に失望させるものであるだろう。

 つまり、プラトンがすでに考えていたように、〈観念〉の不純なるものとは、常に不動性が通過すること、あるいは通過は不動であるということである。そして、そのことのために私たちは諸々の観念を忘れてしまうのである。

 これこれの観念は、どのような到来、どのような想起を私たちに対して可能とするのだろうか?まさに真なる映画作品が観念ごとに扱うのはこの点である。不純なるもの、運動と休息、忘却そして想起のつながりを扱うのだ。私たちが知っていることは、私たちが知ることのできる同程度のものでは全くない。映画作品について語るということは、思考の供給源が他の諸芸術としてひとたび保証されるならば、思考の供給源よりも思考の可能性を語ることになるのだ。そこにあるもの以外に、そこにありうるものを指し示すことである。あるいはまた、純粋なるものの不純化がどのように他の純粋性への道を開くのかを指し示すことである。

『思考する芸術―非美学への手引き 』アラン・バディウ/著、坂口周輔/訳より抜粋し流用。