mitsuhiro yamagiwa

第 9 章 存在、実存、思考ーー散文と概念

(b)言うこと・存在・思考

テクストは、「もうどうにも」の可能性を「まだ」の根本的な変質として出来させるのだ。

 ベケットにおいて始まりとは常に「続ける」ことなのだ。

 言うことの命令は直ちに、その見地からすると言うべきことがあるところのものに関連づけられる。つまり、まさしく「ある」である。

 この「ある」、あるいは純粋な存在は、二つの名をもっており、一つだけではないーーこれが大きな問題であるーー、それらの名は、フランス語訳では虚空と薄暗さである。

 影は薄暗さのなかで展示されるものであると言うことができる。これは、薄暗さという名のもとで展示された「ある」の複数なるものである。

 決定的な言明は遅れるということなのだ。何も証明しない、けれども、である。

 他は、ここではその内部の二重性、それが二であるという意味である。それは、同である二なのだ。

 言うことの命令があり、存在のなかに書き込まれたものがある、そしてこのことは、思考に「とって」と思考の「なか」でのことなのだ。

 もし思考を、ベケットの組織的な方法である単純化の方法に従って絶対的に原初的な構成要素に還元してしまうのなら、そこには可視的なものがあり、言うことの命令がある。そこには「見間違えられ、言い間違えられる」がある。思考とは、「見間違えられ、言い間違えられる」であるのだ。

 見ることは常に見間違えることであり、したがって、見る目は「固く閉じた凝視する」なのである。

(c)必要不可欠な思考ーー三

 つまり、あるのは、言うことの命令のもとで「それが分泌する言葉が言うこと」である。存在の問い、つまり、「虚空と言われたもの」と「薄暗さと言われたもの」である。この「ある」のなかの「ある」の問い、あるいは外観の問い、つまり「影と言われたもの」である。

 これらすべてが、言うことの「まだ」のための方向を固定する最小の装置としてベケットが考えるものである。

 何らかの問いのごくわずかの、あるいは最小の意味があるのだ。

(d)問いと問いの諸条件

 問いとは何だろうか?問いとは、言うことの「まだ」のその方向を決めるものである。「まだ」の航行が方向性をもつことが問いと呼ばれるだろう。そしてこの方向は最悪の方、最悪の方角なのだ。

 問いがあるための最小の装置に対する最初の条件とはおそらく純粋な存在があるということであり、これは虚空という特異な名をもっている。しかし、存在の展示も必要である。

 つまり存在としての存在だけではなく、それ固有の在り方にしたがって展示される存在、あるいは現象の現象性、つまり何かがその存在のなかで現れることの可能性である。

 現れることの可能性としての存在の名、それは薄暗さである。薄暗さは、その存在の問いがありうる限りで、つまり、その存在が、現れることの供給源としての問いに晒される限りで存在なのである。

 これが、一つだけではなく、二つの名(虚空と薄暗さ)が必要である理由である。問いがあるために、存在は二つの名をもたなければならない。ハイデッガーも存在と存在者によってこのことを理解した。

 閉じこもりの仕様(プロトコル)はコギトによって与えられる。頭は頭によって数えられ、頭は頭として見られていることを認めなければならない。

 影は三つの関係によって決定される。最初は、一か二、あるいは同と他の関係である。

(e)存在と実行

 実存とは、悪化する能力のあるものの類生成的な属性である。悪化できるものは実存する。「悪化する」とは、固く閉じた凝視する目で見ることと言葉の滲出に完全に展示させられているという活動の様態である。この展示とは実存である。あるいは、おそらくより根本的に言えば、出会われるものが実存するのだ。存在は、それが出会いの形にあるときに実存する。

 虚空も薄暗さも出会われる何ものも示しはしない。なぜなら、あらゆる出会いは、虚空の可能な限りの間が出会われるものを切り抜くという条件のもとに、そして、自らを展示するあらゆるものの展示である薄暗さがあるという条件のもとにあるからだ。出会われるものは影である。出会われる、あるいは悪化するということは、唯一の同じことであり、これは影の実存を示している。虚空と薄暗さ、これらは存在の名であるが、実存はしない。

 存在、思考、実存の形象、あるいはそのための言葉、または、ベケットが言いそうだが、それを言い間違えるための言葉、これらを我々がもつとき、つまり、言うことの実験的で最小のこの装置をもつとき、我々は問いを配置し、方向を定めることができるのだ。

(f)言うことの文言

 「言うこと、それは言い間違えること」が本質的な同一性であることを充分に理解しなければならない。言うことの本質は言い間違えることなのである。言い間違えることは、言うことの失敗ではなく、まさに逆のことである。すべてを言うことは、言うこととしてその実存そのもののなかで言い間違えることなのだ。

 「言い間違えること」は暗に「うまく言うこと」と対立する。「うまく言うこと」とは何か?「うまく言うこと」とは、一致という仮説のことである。言うことは言われることと一致するのだ。しかし、ベケットの根本的な命題は、言われることと一致するものとしての言うことが言うことを削除してしまうということである。言うことが自由に言うことであり、とりわけ芸術的な言うことであるのは、それが言われることと融合しない限り、言われることの権威のもとにない限りである。言うことは言うことの命令のもとにあり、「まだ」の命令のもとにあり、言われることに束縛されてはいないのだ。もし一致がなく、言うことが「言われること」の要請のもとになく、ただ言うことの規則のもとにあるのなら、そのとき言い間違えることは、言うことの自由な本質であり、あるいはまた、言うことの規定的な自律性の肯定である。

 言い間違えるために言うのだ。そして、詩的あるいは芸術的な言うことである言うことの極みとは、まさしく、言い間違えることの制御された調節なのであり、それは、言うことの規定的な自律性をその極みにおいてもつということなのだ。

 言われるために言う。言い間違え。今からは言い間違えられるために言う。

(g)誘惑

 これらすべてのことがもたらす厳密な帰結は、言うことの規範が述べられているということである。つまり、失敗という規範である。

 最終的に、誘惑とは、存在するための実存をやめさせることなのだ。

 言うことが不可能なため、それを言わないしかないという地点にまで達すること。言うことは不可能のだという意識、つまり完全に失敗だという意識が、言うことの命令ではまもはやなくて、言わないことの命令のなかに打ち立てられる地点にまで達すること。

 ベケットの語彙のなかでこのことは「去る」という表現で言われる。何から去るのか?そう、人間性からである。実際にはベケットは、我々は去らないとランボーのように思っている。ベケットは、人間性から去るという誘惑を完全に認識している。これは、言語と言うこととに落胆するところまで失敗することなのだ。きっぱりと実存から去ること、存在に合流すること。だが、彼は、この可能性を修正し、拒否する。

 根本的に去ることの仮説とは、私たちを命令による人間性から免れさせるものであり、沈黙の要請という本質的な誘惑である。

 したがって我々は決して、純粋な「何もないや絶対的な失敗の出来の名のもとで、言うことの命令から免れるよう作られてはいないのだ。

(h)悪化することの法則

 根本的な法則によれば、言語が可能とする悪くなること、つまり悪化することは、虚無によって捕らえられるわけではないということになる。我々は常に「同じほとんど何もないこと」のなかにいるが、虚無による捕獲がある「これっきり去る」の地点には決していない。薄暗さでも虚空でもない虚無は、言うことの要請の廃棄なのだ。

 言語は虚無の能力をもってはいない。ベケットは言うだろう。言語は「縮小する言葉」をもつのだと。我々は縮小する言葉をもち、この縮小する言葉とは、そのおかげで最悪の方、つまり失敗が集中する方を保つことのできるところのものなのだ。

 マラルメの「直接的では決してない暗示的な言葉」とベケットの「縮小する言葉」のあいだには明白なつながりがある。言われることの裏づけあるいは事物の裏づけのもとで、この事物は言われることはできないという意識のなかで言うべき事物に近づくということは、言うことの要請の根本的な自律化へと我々は導く。この自由に言うことは、決して直接的ではないし、ベケットの語彙に従えば、自由に言うことは縮小するもの、悪化するものなのである。

 換言すれば、言語は、最悪の最小のところを望みうるのであり、廃棄ではないのだ。

 最も少ないが最も良くもっと悪い。決して虚無にならない最少。決して虚無によって無化されない。無化されない最少。それを最も良く最も悪いと言う。

 このことは、ヴィトゲンシュタイン的な意味での「それについては黙らなければならない」が実践できないということを意味する。

 私たちは最悪の方へととどまらなければならないのだ。『最悪の方へ』、このタイトルは命令であり、単純に描写であるわけではない。

 実際、悪化することは何なのか?それは、影に対して言うことの主権を実践することである。したがって、もっと言うことであると同時に、言われることを制限していくことである。だからこそ操作は矛盾する。

 より縮小させるために言葉を増やすことなのだ。

 この言葉は可算ではなくーー我々は加えず、合計は求めないーー、減らすためにもっと言う必要があり、したがって免算するためにもっと言わなければらならないのだ。これが言語を構成する操作である。

( i )悪化の実践

 テクストは、影の現象に関するあらゆる素材に、類生成的(ジェネリック)な人間性の布置に、惜しげもなく悪化の実践を与えていく。

 何への縮小か?そう、それは、一つ一つの線と呼ぶべきものへの縮小であり、この線は影だけを与えるだろう。

 言語の主権性の論理である悪化することの論理は、可算と免算を同一化する。

(j)方向を保つこと

 ベケットにとって勇気は、言葉が真なるものを告げる傾向があるということからやって来る。

 言葉のなかには適合のアウラのようなものがあり、それは逆説的にも、そのなかで私たちが適合それ自体と断交するための、つまり、最悪への方向を保つための勇気をもつところのものであるのだ。

 努力を続けることの勇気は言葉それ自体のなかで汲み取られるが、その言葉本来の目的地とは逆、つまり悪化することのなかにある言葉のなかでなされるのだ。

 すべては、どれほど「縮小することをためらっている」のか、どれほどこの努力が非情であるのかを示している。縮小することをためらうのは、言葉たちが「ほとんど無意味」であり、言葉というものが真なるものを告げ、はっきりと告げ、そこでこそ我々は勇気を出すからだ。だが、何のために勇気を出すのか?そう、まさしく言い間違えるためであり、つまり、勇気へと私たちを招集する幻想、それは真なるものを告げているという幻想を拒否するためなのである。言うことの捻じれとはかくして、努力の非情さを明るみに出すものであり〔最悪の方へ向けて、言葉の明るみを乗り越えなければならない)、それと同時に私たちがこの非情さを扱うための努力でもあるということなのだ。

 私たちは、無に向かうことはできず、ただ最悪の方へ向かうだけなのだ。まさに薄暗さが方向の条件であるのだから、無への方向はないのである。したがって、ほぼ-暗い、ほぼ闇ということを主張できるのだが、薄暗さはその存在のなかでは薄暗さのままにとどまるのである。最終的にそれを悪化することに抵抗するのだ。

(k)悪化できない虚空

 見て取れるように、経験は失敗する。虚空は、純粋な命令として、根本的に悪化しえないままであり、したがって言葉にならないものなのである。

( l )現れることと消え去ることーー運動

 絶対的な消え去ることとは薄暗さの消滅であるというものだ。

 歩く。これは、運動が、変化としての他に不可分なものとして結びつけられているという考えだ。しかし、重要なのは、この運動がいわば不動だということである。

(p)主体をどう思考するか?

 経験とは言い間違えることであり、言うことではないのである。

(q)出来事

 言うべきこととしてとどまっているのは、ただもはや言うべきことはないということになるのである。

 問題となっているのは、薄暗さの消滅ではなく、存在の、その限界への後退なのだ。

 しかしながら、この力-言うことの布置は、存在の状態、悪化することの実践ではもはやない。それは出来事であり、一つの遠方を作りだす。計測不能ない距離を置くということである。

 一つの出来事とは、形象的に準備され、存在の最後の状態が最後でなくなることを出来させるものなのである。

「まだ」と言うこと、「もうどうにも」と言うこと、あるがままの言うことの命令である。

 言うことの数えきれなさ、それはその「まだ」なのであると。

 しかし、そのためには、出来事が存在の最後の状態の範囲を越える必要がある。そのとき私は続けることができるし、続けなければならない。

『思考する芸術―非美学への手引き 』アラン・バディウ/著、坂口周輔/訳より抜粋し流用。