mitsuhiro yamagiwa

2023-02-11

発生の様式

テーマ:notebook

6 くつろぎ

 人はそれぞれの最終状態に到達して自らの運命を成就する瞬間、まさにこのことが理由で自分が隣人の場所にいるのを見いだすこととなるからである。こうして、あらゆる被造物にとって最も固有のものが代替可能なものに転化し、ともかくも他人の場所にいることとなるのである。

 マッシニョンによると、だれかに代わることはその人物に欠けているものを償ったり、その人物の犯した誤りを正したりすることではなく、そのように存在しているままのその人物のなかに移り住み、その人物自身の魂のなかで、その人物自身の生起のなかで、キリスト教に歓待を捧げることを意味しているという。この代替行為はもはや自分の場所を知らない。この代替行為にとっては、あらゆる独自の存在の生起はすでにつねに共通のものであり、唯一無二の取り消すことのできない歓待へと捧げられた空なる空間である。

 くつろぎ〔agio〕という語は、その語源によると、傍らにある空間(ad-jacens ; adjacentia)を指している。

 くつろぎはヘルダーリンの〔カジミール・ウルリヒ・ベーレンドルフ宛て書簡での〕表現によると《最もむずかしい仕事》である《本来的なものの自由な使用》を完璧に名指している。

7マネリエス

 ソールズベリーのジョンはその著書『メタロギコン』のなかでこの術語を引用したさい、自分にはその意味が十分にはわからない(incertum habeo)と言っているが、見たところ、その語源をmanereすなわち「とどまりつづける」から出発してつかみとろうとしているようである(《ひとは事物の数とそれぞれの事物があるがままにとどまっている状態をマネリエスと呼んでいる》)。

 ピサのウグッチョーネの定義は、彼らが《マネリエス》と呼んでいたものは類的なものでなければ個別的なものでもなく、なにか見本となる個物ないし数多的でもある単一的存在のようなものであったことを示唆している。

 論理学者たちは、そのような場合には《あるものが呈示され、別のものが意味される〔呈示されるものと意味されるものとが異なる〕》ということで、《語性への呈示(demonstratio ad intellectum)》という言い方をしていた。すなわち、マネリエスは類でも個でもない。それはひとつの見本、つまりはなんであれかまわない個物なのだ。

 すなわち、発生状態にある存在を指しているのだろう。これは、西洋の存在論を支配している区分法にしたがって言うなら、本質でもなければ現実存在〔実存〕でもなく、発生の様式である。あれやこれやの様式において存在している存在ではなく、その存在の様式そのものであるような存在、それゆえ、単一的で無差別ではないものでありつづけながらも、数多的ですべてに妥当するような存在である。

 発生の様式というこの観念、存在の本源的マニエリズムというこの観念のみが、存在論と倫理学のあいだに共通の通路を見いだすことを可能にしている。自分自身の下にとどまりつづけているのではない存在。隠れた本質として自らに前提されているのではない存在、偶然や運命がそのあとで品質づけの責め苦へと追いやるのではなく、それらの品質づけのなかで自らを曝す存在。余すところなくあるがままの姿をしている存在。そのような存在は偶然的で必然的でもなく、いわば、自分自身の様式から不断に産み出されるのである。

 わたしたちに起きたり、わたしたちを基礎づけたりするのではなくて、わたしたちを産み出す様式こそが倫理的なのだ。そして、このようにして自分自身の様式から産み出されるものが、人間たちにとって真に可能な唯一の幸福なのだ。

 だが、発生の様式はなんであれかまわない個物の住まう場所である。そして、その個体化の原理でもある。じっさいにも、自分自身の様式にほかならない存在にとっては、このような発生の様式はその存在の本来具わっていてそれを本質として規定し同定するようなものではなく、むしろ、その存在にとって非本来的なものである。

 見本とはそれがあくまでそれの見本であるような存在のことでしかない。が、しかしながら、この存在はそれには所属しない。

 わたしたちがわたしたちの本来的な存在として露呈させる非本来的なもの、わたしたちが使用する様式こそがわたしたちを産み出すのである。これこそはわたしたちの第二の自然、〔第一の自然よりも〕さらに幸福な自然なのだ。

8 悪魔的なもの

 それは、現実に存在するあらゆる存在のなかにあって、沈黙のうちにわたしたちの救済を求めている、存在しないでいることの可能性なのだ(あるいはこう言った方がよければ、悪魔とは神的な無力〔impotenza〕ないし神において存在しないでいることの能力〔potenza〕以外の何ものでもないのである)。悪とは、もっぱら、この悪魔的な要素を前にしたわたしたちの不適切な反応のことである。

 無力ないし存在しないでいることの能力が悪の根源であるのは、あくまでもこの副次的な意味においてでしかない。わたしたち自身の無力から逃走しながら、あるいはその無力を武器に役立てようとここころみながら、わたしたちは邪悪な権力を構築し、この権力によってわたしたちに弱さを示す者たちを抑圧するのである。また、わたしたちの最も内奥に潜んでいる、存在しないでいることの可能性をつかみ損ねて、愛を可能にする唯一のものから転落してしまうのである。じっさいにも、創造ーーないし現実存在ーーとは存在することの力が存在しないでいることの力と闘って勝利することではない。それはむしろ、神が神自身の無力を前にして無力であることなのだ。

 だから、カフカとヴァルザーが神の全能に対置して妥当させてようとしているのは、被造物が生来有している純粋無垢さでもなければ、誘惑の純真無垢さでもない。彼らの作品に登場する悪魔的な存在は誘惑者ではなくて、誘惑されることを限りなく受けいれうる存在である。アイヒマン、つまりは徹底して凡庸な人間が、まさしく法〔diritto〕 と法律〔legge〕の力によって悪事を働くよう誘惑されてしまったということは、恐るべきことにも、わたしたちの時代が彼らの診断に復讐をくわだてていることを確認させてくれる。

『到来する共同体』ジョルジョ・アガンベン/著、上村忠男/訳より抜粋し流用。