mitsuhiro yamagiwa

2022-02-02

疎遠な現実

テーマ:notebook

a 精神的な動物の国と欺瞞、あるいはことがらそのもの

根源的に規定された自然

 個体性が立ちあらわれるのは、それゆえ根源的に規定された自然〔限定された才能〕としてなのである。ーー根源的な自然であるのは、それが自体的に存在するからだ。根源的に規定されているのは、否定的なものが自体的なものにおいて存在し、この否定的なものはかくて質だからである。

 否定性が規定性であるのは、ただ存在にそくしてのことにすぎない。いっぽう行為することはそれじしん否定的な力にほかならない。行為する個体性にあっては、したがって規定性が否定的なありかた一般のうちに解消されている。いいかえれば、規定されたありかたすべての総括のなかで解消されているのである。

行為における、目的、手段、対象について

 行為 第一に対象として存在する。そのさいの対象はしかも対象とはいっても、なお意識に所属しているから、目的として現に存在し、かくて目のまえにある現実と対置させられている。〔行為の〕第二の契機は、静的に表象された目的を運動させることであり、現実化である。現実化とはいっても〔まずは〕、目的を、まったく形式的なものである現実に関係づけることであって、その現実化とはかくてまた移行そのものを表象することである。第二の契機とは、いいかえれば手段なのである。第三の契機が、さいごに対象である。

 すなわち、内容はそれらの側面にあって、どれもおなじものであり、どのような区別も入りこんでいない、ということだ。つまり、個体性と存在一般とのあいだの区別も、目的が根源的自然としての個体性に対して有する区別も、おなじく目のまえにある現実に対してもつ区別も、さらに同様に手段が絶対的な目的としての現実に対して切りむすぶ区別も、引きおこされた現実が目的に対して、あるいは根源的自然や手段に対して置かれた区別も、なにひとつ入りこまないのである。

素質(根源的自然)と行為と目的との円環

 意識に対して〔自覚的に〕、じぶんが「それ自体としてなんであるか」か存在するようになるためには、意識は行為しなければならない。つまり行為とはほかでもなく、意識として精神が生成することなのである。意識がそれ自体としてなんであるかを、意識はしたがって、みずからの現実から知る。個体がそれゆえ「じぶんがなんであるか」を知るのは、行為をつうじて、みずからを現実的にもたらしてからでないとありえないことになる。

 手段とは外なるものと内なるものとの統一であり、手段が内なる手段〔才能〕として有していた規定性とは反対のものであるからだ。

根源的自然における限定性と普遍性

 仕事が存在しているということは、それゆえそのものとして一箇のはたらきであって、そのはたらきのなかでいっさいの区別が相互に浸透しあい、かくて解消されていることになる。

 いっぽう規定性とはただたんに、現実の内容となるばかりではない。それは同様に現実の形式である。ことばをかえれば現実そのものとは、総じてこの規定されたありかたにほかならず、つまり自己意識に対置されて存在することなのである。この側面からあきらかなように、現実とは概念の外へと消えうせて、ひたすら目のまえに見いだされる疎遠な現実であることなのだ。仕事は存在する。その意味するところは、仕事が他の個体性に対して存在するということであり、しかも他の個体性に対して異他的な現実であるということである。

 仕事とはしたがって、総じて移ろいゆくなにごとかなのであって、他のさまざまな力や関心が反作用することによって解消されてしまう。仕事が個体性の実在的なありかたを呈示するものであるにしても、それをかえって消失してゆくものとして呈示するのであって、完成され〔揺るがないものとして〕呈示するわけではない。

『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。