mitsuhiro yamagiwa

b 啓蒙の真理

純粋な洞察、純粋な思考、純粋な事物

 区別とはつまり味わわれる、見られる等々のことである。

 思考することは事物であることであり、もしくは事物であることが思考することなのである。

Ⅲ 絶対的自由と恐怖

 対象は絶対的に概念であるということである。なにが概念を存在する対象とするかといえば、それは概念が区別されることで、分離して存立しているもろもろの群となることによってであった。いっぽう対象が概念となるとき、存立しているものは、概念にそくしていえばもはやなにもない。そこでは〔概念に帰属する〕否定的なありかたが、概念の対象の契機のことごとくに浸透してしまっているということである。

 対象からはじめるなら、その対象は一箇の異他的なものであり、そこから開始して意識ははじめてじぶんのうちへと立ちかえることになるだろうが、そうではなく対象が意識にとって意識そのものなのである。

 つまり個別的意識が、普遍的な意識であり意志なのである。

a 道徳的世界観

第二の要請ーー内なる自然=感性と道徳性の調和

 自然は意識にとって「じぶんにぞくする」自然なのであって、それが感性であるということになる。感性はここで意欲という形態をまとって、衝動となり、傾向性となって、それだけで固有なしかたで規定された本質的なありかたを、つまり個別的な目的を手にして、かくて純粋な意志と純粋なその目的とに対立しているのである。

 つまり「感性は道徳性に適合すべきである」ということだ。

あらたな要請ーー純粋義務と限定された複数の義務

 存在するものがここで有する形式は義務の内容であって、いいかえれば規定〔限定〕されたありかた、しかも限定〔規定〕された義務にそくして規定されたありかたであるからだ。

道徳的世界観の総括とその帰結

 道徳的自己意識が現実のものであるということ、すなわちそのような自己意識があるということである。

「置きかえ」への移行

 意識は自己意識としては、対象とはことなった或る他のものである。その意識にとってこうして残存するものは不調和であって、その不調和は義務意識と現実とのあいだにひろがり、その現実とはしかもじぶん自身である。

 すなわち「道徳的自己意識が存在するとすれば、それはただ表象のなかにおいてのみである」ということである。いいかえれば、こうなるだろう。道徳的自己意識は存在しないとはいえ、自己意識は他の自己意識によって、それでも道徳的なものとみなされうるのだ。

b 置きかえ

道徳的世界観とは「矛盾の巣窟」(カント)である

第一要請・再考

 行為するとは現実化であり、そこで実現されるのは内的な道徳的目的にほかならないからだ。

 道徳的行為の概念にしたがえば、純粋義務とは本質的にいって活動する意識であるからだ。

最高善とその置きかえ

 行為することはただ、否定的なものを前提とすることで存在し、この否定的なものを行為が廃棄すべきであるからだ。

 意識が出発するのは、意識に対しては道徳性と現実とが調和してしないという消息からであった。

道徳性は一箇の中間状態であり、中間状態とはひとつの非道徳性である

 道徳性とは意識であって、その意識にとって倫理目的とは純粋義務である。

 真剣であるのはかえって、中間状態にかんしてなのだ。これはすなわち、たったいま究明されたとおり、非道徳性について真剣であるということなのである。

純粋な道徳性とは一箇の仮象にほかならない

 道徳的意識は〔道徳的意識であると〕同時に、自然的意識でもあるからだ。道徳性は道徳的意識のうちにあるかぎり、感性によって触発され、条件づけられているのだから、道徳性はそこでは絶対的に存在するというわけにはいかない。

 それ自体として、自立的なかたちでは、道徳性はかくして、他の存在者のうちにある。

 道徳性とは端的にただ消極的な関係だけを、自然と感性に対して有するものとされるかぎりにおいてのことであるということだ。

道徳的世界観の解体と意識の遁走

 意識が認識しているように、その道徳性は未完成なままに止まっている。

 つまり道徳性の真のありかたがなりたつとすれば、それは〔一面で〕現実に対立し、現実からまったく自由で空虚なものであるしだいに、〔他方では〕また現実的なものである消息においてなのだ。

『精神現象学 下 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。