mitsuhiro yamagiwa

第13章 信じること/信じさせること

ある考古学/信仰の移りゆき

 ひとつの仮説が前提にしているのは、信仰というものがその対象と結びついていて、その対象を保存すれば信仰も保存されるだろうという考えである。ところが事実は(歴史をとっても記号論をとってもあきらかなように)、信じるという主体のエネルギーはある神話からまた別の神話へと移りゆき、あるイデオロギーから別のイデオロギーへ、ある言表から別の言表へと移ってゆくものなのだ。こうして信仰はひとつの神話から身をひき、心はそこから離れつつも、その神話はなかば無傷のままに残しておく。つまりただの資料と化して残しておくのである。

 だが信条というものは、ひとたび無くなってしまったところにそうたやすく再生するものではない。

 古代社会においては世俗的権力の支えとなり、キリスト教的西欧においては世俗的権力と対立した「霊力」は、それ以来というものしだいに軌道をはずれ、散逸するか、あるいは縮小してゆく道をたどり、それにつれて信はもっぱら政治システムの領域にのみ投与されるものになっている。

「教」権から左翼勢力へ

 あらゆる権力がただ実存しているというそれだけの事実によって自己を正当化するのにたいし、そこでは倫理的な価値や理論的真理や殉教の歴史が正当化の代わりをはたさなければならない。いまだ存在してないものが問題になるところでは、「信じさせる」術がいちだんと決定的な役割をはたす。既得の権力は妥協をゆるし、しばしば妥協を要求しさえするが、そのときにこそ教義の非妥協性や排他性が強力な力を発揮するのである。

 今日、信じることと知ること、そしてそれらの内容がたがいに他を規定しあっているありかたはどのようなものか、それをあきらかにし、そのことをとおして、信じることと信じさせることが政治の場ではたしている役割をあきらかにしなければならない。現代のシステムのなかにおいては、こうした政治の領域においてこそ、立場のかかげる要求と歴史的制約とがせめぎあいつつさまざまな戦術をくりひろげているのである。このような現代的アプローチをしてみると、どのような教義もかならずそれに頼っておのれをひとに信じさせてきた二つの装置をとりあげてみることができる。すなわちひとつは、なんらかの現実の名において語るという姿勢である。この現実なるものは、到達不可能なものとみなされており、信じられたもの(ある全体性)の原理をなすと同時に、信じるという行為(つねに逃れゆき、確かめることができず、そこには無いもの)の原理をなしてもいる。もういっぽうにあるは、「現実」によって権威をさずけられたディスクールには、実践を組織化する諸要素、すなわち「信仰箇条」をそなえる力があるということである。

 現実という制度


 事物の大いなる沈黙はメディアによってその反対物に変えられる。現実というものは、かつてはひそやかなものであったのに、いまやすっかりおしゃべりになってしまっている。どこをむいてもニュースだらけ、情報、統計、調査だらけだ。これほど物語を聞かせられ、見せつけられたことはいまだない。

 いま- 起こって- いることを物語るということが、現代社会の正統教義になっている。数字の争いが現代の神学論争である。戦士たちがたずさえている武器は、もはや攻撃用の思想でもなければ防衛用の思想でもない。かれらは事実やデータや事件のうちに身をひそめ、擬装して前進する。かれらは「現実」の使者として姿をあらわす。

 かれらが進むと、まるで地面そのものが前進しているかに見える。が実を言えば、かれらはその地面を製造し、でっちあげ、その仮面をつけ、それで信用をとりつけているのである。そうしつつかれらは自分たちの掟のための舞台をしつらえているのだ。

 「事実はこうなっており、データはかくかくしかじかであり、情況はこのとおり……。したがって諸君がなすべきは……。」物語られる現実は、信じるべきこと、なすべきことをはてしなく口述しつづけている。次から次へと浴びせられるこうした事実にたいして、いったい何をつきつければいいのだというのだろう。われわれはただ、はい、と言って頷くしかないし、神託よろしく、これらの事実が「意味する」ことにしたがうよりほかはない。

 このような現実という制度こそ、現代の教義がまとっているもっとも目につきやすい形態なのである。

 匿名のコードとして、情報は社会全体のすみずみにまで神経をはりめぐらし、社会を飽和状態にしている。

 物語はわれわれの実存がどうあるべきかを教えながら、われわれの実存を分節化している。

 社会のなかで暮らしていると、物語モデルを刷りこまれた身ぶりや行動がどんどん増えてゆく。物語の「コピー」がたえず再生産され積み重ねられていっている。われわれの社会は、三重の意味で暗唱社会になっていまっているのだ。なぜならこの社会は、物語(コマーシャルや情報のつくりあげる寓話)によって規定されており、同時にその物語の引用と、そのはてしない暗唱によって規定されているからである。
 これらの物語は見ることを信じることに変え、にせもの[見せかけ]を使って現実を製造するという摩訶不思議な二重の力をそなえている。二重の転回が起こっているのだ。いっぽう近代は、そのむかし軽信をしりぞけて、視と現実のあいだに契約をうちたて、見られたものこそ現実であるとし、事物を観察しようという意志とともに生誕したにもかかわらず、いまやこの関係を逆転させて、まさに信じるべきこどを見せつけている。フィクションが視ることの領域と地位と対象を規定しているのである。メディアやコマーシャルや政治的な見世物はこのようなしくみで成り立っている。

 それらのフィクションはある象徴秩序を物語りながら、事物の真理には触れることなく、真理は秘められたままにとどまっていた。今日、フィクションは、現実を見せると称し、事実の名において語ると称し、それゆえ、みずからが生産するにせものを指示対象[現実]とみなすようにしむけている。したがってこうした伝説の受け手(そして支配い手)は、もはや見もしないものを信じこませられる(伝統の立場)のではなく、見るものを信じこませられる(現代の立場)のである。

 こうして人びとの信を支える場が転回をとげてしまったのは、知のパラダイムに変化が生じた結果である。すなわち、現実は不可視であるという過去の公準にとってかわって、現実は可視的であるという公準がうちたてられたのだ。近代世界がくりひろげられる社会文化的な舞台は、ある「神話」に依拠している。その神話によれば、社会的な指示対象はその可視性によって(したがって科学的ないし政治的な表現性によって)規定されるのである。この新しい公準(現実は目に見えると信じること)にもとづいて、われわれの知の可能性が決定され、観察、証明、実践の可能性が決定されるのだ。

 だがいまや両者の関係は、もっぱら見られるかどうか、観察されるかどうか、示されるかどうかというかたちでしか問題にされないのである。現代の「シミュラークル」、要するにそれは、見ることを信の究極の場にしえてしまったということであり、見られたものは信じられるべきものだとしてしまったということであるーー

引用社会

 映像の流す物語、いまや「フィクション」でしかなく、目に見え読める生産物でしかない映像をめにして、視聴者-観察者は、それが「にせもの」にすぎぬこと、操作の産物でしかないことをよく知っているーー「嘘きまっているさ」ーーだがそれでもやはり視聴者はこうして映しだされる嘘の映像になんらかの現実性があるものと思ってないわけではないのである。

 もはや信は記号の背後に隠された不可視性の他性にもとづいているのではなく、他の集団、他の領域、あるいは他の専門科学がそうだろうとみなされているものにもとづいている。「現実」とは、それぞれの場で、他のものを参照してみて信じられそうなものなのである。専門科学のあいだでさえ事はそのように運んでいる。たとえば、歴史額と情報科学は、ある驚くべき取り違えにもとづいて結ばれあっている。

 どの政治的ディスクールも、それを支える経済的分析を頼りに(この経済分析がまた政治に送り返されることによって価値づけられる)、その分析が想定し想定されるものをもとにしながら現実効果をひきだしている。

 こうして信は、ひとが「それでも」他人にはあるだろうと想定している現実性に依拠しているのであり、自分が現にいる場ではどれほどそれが「くだらない」ものであるか、わかりすぎるほど「わかっていて」も、それでもなお他人にはあるだろうと想定している現実性にたよりながら存続しているのである。

 というわけであるから、引用は、信じさせるためのまたとない武器になるにちがいない。なぜなら引用は、他人が信じていそうなものを利用することだからであり、かくして「現実性」がなりたつための手段だからである。都合のいいように他人を引用すること、それは、ある特殊な場で生産されるシミュラークルを信じられるものにすることである。世論「調査」は、そうした引用のためのもっとも基本的でもっとも受動的な手続きになってしまっている。たえずくりかえされる自己 – 引用ーーすなわち調査の増加はーーは、国がいまある自分を信じるたるためのフィクションである。

 「世論を形成する」この装備が、その装備の保有者によって操作可能なものであるかぎり、ひとは問いかけてもよいはずだ。この装備には「信」を「不信」に変え、「疑惑」に変え、いな告発に変える力はないのか、と。

『日常的実践のポイエティーク』ミシェル・ド・セルトー/著、山田登世子/訳より抜粋し引用