mitsuhiro yamagiwa

2021-04-27

機転と機会

テーマ:notebook

戦略と戦術

 消費という実践は、消費という名を冠した社会のまぼろしなのである。在りし日の「霊」のように、この実践は、生産的な活動の多型で神秘的な公準となっている。
 この実践を考察するために、わたしは「軌跡」というカテゴリーに依拠してみた。これなら空間のなかでの時間的な動きを、すなわち移動してゆく点の通時的継起のまとまりを示せるだろうし、これらの点が共時的ないし非時間的なものと想定された場所にえがきだす形状を示すようなことはないはずであった。だが実をいえば、このような「表象」では十分とはいえない。というのも、軌跡はまさに描きだされるからであり、そうして時間なり動きなりが、目で一瞥でき、一瞬のうちに読みとれる一本の線に還元されるからである。街を歩く歩行者のたどる道筋は平面上に描きうつすことができる。このような「平面化」は実に便利なものだが、場所の時間的分節を、点の空間的配列にならべかえてしまう。ひとつのグラフはひとつの操作の平面化である。ある一瞬と「機会」とに結びついてきりはなすことができず、それゆえ非可逆的な(時間はもどらないし、とりのがした機会はもどってこない)実践が、可逆的な(ひとたび表の上に描かれると、どちらかでも読める)記号におきかえられれしまう。

 それは行為やパフォーマンスの名残りでしかなく、その消費の記号でしかない。こうした軌跡が前提にしているのは、あるひとつのもの(この一筋の線)をもうひとつのもの(機会と結びついた操作)ととりかえうるということである。それは、空間の機能主義的管理が効果を発揮するためにおこなう還元作用に典型的な「取り違え」(これなのにあれを)なのだ。したがって、これとは別のモデルに依拠しなければならない。

 わたしが戦略とよぶのは、ある意志と権力の主体(企業、軍隊、都市、学術制度など)が、周囲か独立してはじめて可能になる力関係の計算(または操作)のことである。こうした戦略が前提にしているのは、自分のもの[周囲のもの]として境界線をひくことができ、標的とか脅威とかいった外部(客や競争相手、敵、都市周辺の田舎、研究の目標や対象、等々)との関係を管理するための基地にできるような、ある一定の場所である。

 言うなればそれはデカルト的な身ぶりである。《他者》の視えざる力によって魔術にかけられた世界から身をまもるべく、自分のものを境界線でかこむこと。科学、政治、軍事を問わず。近代にふさわしい身ぶりなのだ。

⑴「固有のもの」とは、時間にたいする場所の勝利である。

⑵それはまた、視ることによって場所を制御することでもある。空間の分割は、ある一定の場所からの一望監視という実践を可能にし、そこから投げかける視線は、自分と異質な諸力を観察し、測定し、コントロールし、したがって自分の視界のなかに「おさめ」うる対象に変えることができる。(遠くを)見るとは、同時に予測することであり、空間を読みとることによって先を見越すことであろう。

⑶知の権力とは、こうして歴史の不確実性を読みうる空間に変えてしまう能力のことであると定義してもまちがいではあるまい。しかしながら、こうした「戦略」のうちに知のそなえる特有の型が存するといったほうがより正確である。すなわちそれは、権力が維持しあきらかにしている型、自分に固有の場所をそなえつけようという型である。

 いいかえれば、こうした知の先行条件として権力があるのであり、権力はたんに知の結果や属性ではないのである。権力が知を可能にし、いやおうなくその特性を規定してしまうのだ。知は権力のなかで生産されるのである。

 わたしが戦術とよぶのは、自分のもの(固有のもの)をもたないことを特徴とする、計算された行動のことである。ここからが外部と決定できるような境界づけなどまったくできないわけだから、戦術には自律の条件がそなわっていない。戦術にそなわる場所はもっぱら他者の場所だけである。したがって戦術は、自分にとって疎遠な力が決定した法によって編成された土地、他から押しつけられた土地のうえでなんとかやっていかざるをえない。戦術には、身をひき、先を見越しつつ、身構えながら、自分で依って立つということができないのである。それは、フォン・ビューローが語っていたように、「敵の視界内での」動きであり、敵によって管理されている空間内での動きである。

 戦術は、ひとつひとつ試行錯誤的にやってゆくわけである。それは「機会」を利用し機会に依存するが、利益を蓄積し、自分のものを増やし、あらかじめ出口の見当もつけておけるような基地をもっていない。戦術が手にいれたものは、保存がきかないのである。こうした非 – 場所性のおかげで融通がきくのはたしかだが、一瞬さしだされた可能性をのがさずつかむためには、時のいたずらに従わねばならない。

 戦力は配備しておくものであって、フェイントの危険にさらすためのものではないのだ。勢力なるものはその可視性によって束縛されているのである。これにたいして、弱者には奇略が可能であり、たいていはそれだけが頼りで、それが「たのみの綱」というわけである。「戦略の指揮下にある戦力が小さければ小さいほど、それだけ戦略は奇略を弄しやすくなる。」わたしに言わせれば、それだけ戦略は戦術に転化するのである。

 「機知が観念や考えを相手にした奇術であるのと同様に、奇略は行為における奇術である。」

「早業をやってのける」技とは、機をとらえるセンスである。

 自分の場所をもたず、全体を見わたせるような視界もきかず、からだとからだがぴったりくっついている時のように、目には見えないけれど敏感に動きを察し、時のたわむれの命ずるがままにしたがう戦術は、戦略が権力の公準によって編成されているのとおなじように、権力の不在によって規定されている。

 戦略とは、ある権力の場所(固有の所有地)をそなえ、その公準に助けを借りつつ、さまざまな理論的場(システムや全体主義的ディスクール)を築きあげ、その理論的場をとおして、諸力が配分されるもろもろの場所全体を分節化しようとするような作戦のことである。

ゆえに戦略は場所関係を特化する。

 こうしてみれば戦略と戦術の相違は、行動をとるか安定性をとるかという、歴史にかかわる二つの選択に帰着する(ただし二つの可能性というより二つの制約のあいだの選択だが)。戦略のほうは、時間による消滅にあらがう場所の確立に賭けようとする。いっぽう戦術はたくみな時間の利用に賭け、時間がさしだしてくれる機会と、樹立された権力に時間がおよぼす働きに賭けようとする。普段の戦争術が実際にもちいる方法はけっしてこれほど明瞭に二分化されているわけではないが、場所に賭けるか時間に賭けるかによって軍事的行動のありかたがわかれることにはちがいない。

『日常的実践のポイエティーク』ミシェル・ド・セルトー/著、山田登世子/訳、訳抜粋し引用