mitsuhiro yamagiwa

2022-07-13

想像の一人歩き?

テーマ:notebook

Ⅶーー類別からプロセスへ

 そもそも知覚するということ自体、論理階型を踏み上がることなのである。イメージの一つ一つが、幾つものレベルにわたる複雑多岐なコード化とマッピングとの集大成なのだ。

 直接手の届かない、物それ自体も、お互い同士の間に、もの対われわれの関係に類する関係を秘めている。もの同士も(生きているものでさえ)互いを直接に経験しあうことはできない。生きた世界を理解していくためには、まずもってこのことを第一の公準に据えなくてはならない。われわれに有無を言わせぬリアリティが(きわめて広い意味での)観念の側にあるということ、この前提に立つことが決定的に重要である。われわれに知り得るのは観念のみ、他には何一つ知り得ない。観念同士を結び合わせる規則性(いわゆる”法則”)こそが、”真理”と呼び得る唯一のもの、最終的な真実にわれわれが近づき得る限界なのである。

プロセスの類型論

 ライフルでは一組の照準器が的の外れ具合を知らせてくれる。このズレを修正しようとすると新たなズレが生じるが、修正を繰り返すうちに満足できる点に照準が合う。その瞬間に引き金か引かれることになる。

 ここで重要なのは、ただ一回の発砲行為の中で自己修正がなされるという点である。ミッテルシュタットは、この種の適応方法を一括してフィードバックと呼んでいる。

 修正は数多くの行為のクラスに基づいて行う他はないのである。

 構造を決定するものとしてプロセスがあり、プロセスを決定するものとして構造があることが明らかなとき、二つのレベルの構造は、プロセスの記述を経てはじめて関係づけられるとしなくてはならないだろう。この関係がすなわち、クラスからクラスのクラスへというラッセルの抽象的ステップに対応する現実世界のステップだと私は考える。

Ⅷーーそれで?

 魔術から宗教が発生したという伝統的な考え方があるが、あれは逆だ。宗教が堕落して魔術になった、そう考えるのが正しいと私は思う。

 宗教ってものは、いつも堕落に向かう傾きを持つ。堕落が要請されるとさえ言っていい。

*付記ーー時の関節が外れている

 必然的に、われわれの文明はあらゆる面で引き裂かれている。経済面では、甚だしい生の戯画ともいうべき二つのイデオロギーの怪物ーー資本主義と共産主義ーーが、おまえはどちらの側に立つのか迫ってくる。思考の領域でも、心のこもらぬ学術理論と、轟々たる反知性主義の熱情とが、われわれを両側から引き裂こうとしております。

 何かが根本的に間違っている、そしてそれは生に必然する苦難のごときものではなく、何か修正するすべのあるものではないか、と思われるのです。

 何が必然なのか、それを認識するところから一種の解放が得られます。必然を知れば、それに対する対処法も分かって参ります。走行中の自転車の平衡の法則を、運動神経が半ば無意識に認知したとき、自転車を自由に乗りこなすことができるのです。

 言うまでもなく、時代遅れが生じるというのは、システム全体の各部分がいろいろと変化していく中で、そのような変化から何らかの形で取り残されていく部分ができてくるということです。恒常的なシステムに時代遅れというものはありません。

 生存とは、二つの対照的な現象またはプロセスに依存するものであります。適応的な動きを獲得するのに二重の導きがあるということです。

 内側では展開されてくる規則性と生理機構とが守られねばなりませんし、外側では環境の気まぐれな要請に従わなくてはなりません。

 外圧によって適応的変化を遂げるのは個体であるけれども、自然選択はあくまでも個体群の遺伝プールに対して働く。

 保守主義とは両立性と一貫性に根差すものであります。

 しかしながら時代遅れには、もう一つの局面が存在します。文化システムの中に進化の”早すぎる”部分があるから、”ついていけない”部分が生じる。言うまでないことです。時代遅れというものは、二つの構成部分間の不均衡にこそある。

 ”時の関節が外れた”のは、進化を操縦すべき二つの構成要素の歩調が合わなくなってしまったからにほかなりません。確固とした基盤への根ざしを振り切った想像の一人歩き。

パターン / 量、形態機能、字句意味、強直性想像性、同一性類似性、キャリブレーションフィードバック

 人間を振り分けるこの対極性が、実は生ある世界を成り立たせる弁証法的な二者なのだということ、この点を忘れてはならいないと思います。”夜”なきところに”昼”がないのと同様、”機能”なきところに、”形態”はありません。

 社会的変化の選択に、安心とか不快とかの個人的な規順しかなく、新たな事態による新たな不快が(不可避的に)生じるまでは、類と個という論理レベルを分けることすら忘れられている。死の恐怖と深い悲しみが伝染病の撲滅を是として以来百年の予防医学の結果として、われわれはすでにヒトの個体群が膨れすぎた現実を目撃しております。

 構造の変化を促進するだけでも、機能の変化を抑制するだけでも、時代送れは避けられません。全面的な進歩の側に立っても、全面的保守の側に立っても、時の関節はつながりません。一つの片寄った精神が支配するよりは、二つの片寄った精神が抗争する方がましだとは言えましょうが、抗争システムからは妥当な決定は期待できません。論自体の持つ力ではなく、”抗争力”の強弱によって決着がつくという性悪な特徴が、抗争システムにはつきものだからであります。

 ”権力は腐敗する”と申しますが、実際に腐敗するのは”パワー”の神話です。

●ーー原注

 われわれに気遣うことのできるのは、われわれの生きるこの生態系までであって、それ以上に大きなシステムの生存まで気遣うことはできません。

 与えられた任意の公理ないし定義のみから展開されるーーつまり展開の道筋で”新しい”情報がいっさい付け加えられないーーものがトートロジーです。定理を”証明”するとは、その定理がはじめから、公理と定義の中に埋もれていることを示すことにほかなりません。

『精神と自然 | 生きた世界の認識論 』グレゴリー・ベイトソン 著/著、佐藤良明/訳より抜粋し流用。