mitsuhiro yamagiwa

 一方が偏っているときに、すべてが等しいと言い張るのは真実の概念への敬意を欠いている。

 少なくともアメリカの政治においては、経済的な事柄について信念を形成する際、事実よりも感情のほうが重要だと述べるのは新しく思える。

第一章 ポストトゥルースとはなにか

 客観的な真実がただひとつ存在するという考えは、つねに論争の的であった。

 もっとも大きな危険は、すでに真実を知っていると思っている者たちの傲慢さから生まれる。なぜなら、そうしたとき、人はきわめて熱心に、間違った考えに基いた行動をするからだ。そこで現時点で、せめて真理に関する最小限の定義を与えることが重要である。

 その次の段階は「意図的な無知」というもので、あることが真実かどうかはっきりと知らないときに、その情報が正確かどうかをか確かめる時間をとらずにとにかく述べてしまうことだ。

 大胆だが厳密な著書『ブルシットについて〔邦題 : ウンコな議論〕』において、哲学者ハリー・フランクファートは、人が適当なことを言うとき、その人は必ずしも嘘をついているわけではなく、何が真実かについて無関心で注意を向けていないことを示しているだけかもしれないと述べている。トランプもそうなのだろうか?真実に対して人がとる態度には、もっと愛国的な別のものもある。

 ポストトゥルース時代の新しさは、むしろ、現実の認識という考えに対する挑戦ではなく、現実そのものの存在に対する挑戦という点にある。

 ーー誰かにとって真実であることが望ましいような事柄に従う仕方でーー特定の事実がほかのものよりも重要視されるという考えが全体を支配している点にある。単に気候変動否定論者たちが事実を信じていないというよりも、否定論者たちは自分たちのイデオロギーを正当化する事実を認めたいと思っているだけなのだ。

 主たる基準は、彼らの前提としている信念にとって都合が良いのは何なのかという点にある。これは事実が廃棄されたわけではない。そうではなく、事実を信用できる仕方で集めて確かな仕方で用い、それによって現実についての信念を形成する手続きが腐敗したのである。実際、この手続きを排除すれば、わたしたちがどう感じるかにかかわらず真実は存在しているという考えは損なわれるし、真実を見つけようという試みがわたしたちの(そしと政策実行者たちの)最大の関心事であるという考えも弱体化する。

 ポストトゥルースとは真実が存在しないという主張ではなく、事実がわたしたちの政治的視点に従属するという主張なのだという感覚を抱くだろう。オックスフォード大学出版局辞典部門による定義は何がポストトゥルースなのかという点を焦点としている。

 ポストトゥルースのもうひとつのルーツは、客観的真理の不可能性を主張する議論であり、これは科学の権威を攻撃するために用いられてきた。これらすべてが近年のメディア環境の変化によって悪化し続けている。

 わたしたちが生まれもっている認知バイアスや、真理についての問いに関する学術界のささいでつまらない議論、そして都合の良いメディアの利用は、右派による科学への攻撃のなかにかつてすでに存在していた。

 ポストトゥルースという現象は、異質で当惑させるものに思えるかもしれない。だが理解し難いものでもなければ理解を受け入れないものでもない。

『ポストトゥルース 』リー・マッキンタイア/著、大橋 完太郎/監修、居村 匠・大﨑 智史・西橋 卓也/訳より抜粋し流用。