mitsuhiro yamagiwa

2022-09-08

堆積の線と逃走の線

テーマ:notebook

グローバルな「マルチ」ヴァーシティ

 古典的な保守モデルを検討することから始めよう。

 続いて、知識は客観的であると想定される。なぜなら、知識が依拠するのは、独立して実在する現実を表象したものであり、主観主義的な解釈ではないからだ。合理性が支配力をもつのであって、形式的な理性ーー実践的な理性とは対置されるーーは、それ自体の内的論理を備えており、その論理が証拠や妥当性についての諸々の基準を提供するとされる。その結果、知性の基準は譲ることができず、卓越についての客観的な価値基準に基礎づけられることになるのである。

 わたしはむしろ、グローバルに考えローカルに振る舞うという経験的命法から出発することにしたい。

 今日の歴史的条件と直面することとは、思考の活動を外側へ、現実世界へと向け、そうすることで、わたしたちが立つ場所を定義する諸条件への説明責任を引き受けようとすることである。認識と倫理の歩みが手を取りあい、第三世紀の複雑に入り組んだ地平へと進んでいく。もはやもとに戻ることはできない以上、そうした難局に際してなすべきことをなすための概念的な創造性と知的な勇敢さがわたしたちに必要なのだ。

 わたしたち自身やわたしたちの価値体系について別様に思考することを学ぶためには、非単一的で関係を織りなす主体の位置から始める必要がある。

 未来とはつまるところ、世帯間の連帯や後世に対する責任にほかならないが、それはわたしたちが共有する夢、ないし合意のうえでの幻覚である。これはウィリアム・ギブソンによるサイバースペースの定義である。

結論

 電子的に結びつけられた汎人間性は、不寛容やさらには排外主義的暴力を生み出している。

 わたしは当初からずっと、批判理論の重要性を強調してきた。それは、批判と創造性を組み合わせ、新たに根本的なしかたで現在というものと向きあうことをみずからに課すという意味での批判理論である。わたしの主たる関心は、どのようにしてわたしたちが生きている状況にふさわしい理論的および想像的なの表象を見つけ出すか、そして、どのようにしてポストヒューマン的主体性というオルタナティヴなありかたでともに実験していくか、というものである。

 そもそもひとつのシステムは、その構成上、対象にとって正当な認識を与えることができないのである。言語的シニフィアンは、〈欠如〉と〈法〉にもとづいているので、せいぜい計略をはりめぐらしエンパワーメントを抑え込むことぐらいしかできないのだ。言語的シニフィアンの主権権力は、否定的な情念によって築かれている。

 一元論的な政治は、主体性の核心部分に権力作用を分配する差異のメカニズムを置くのである。多数の補足のメカニズムは、多数の抵抗のありかたを生み出してもいる。

 運動と速度、堆積の線と逃走の線が、非単一的ポストヒューマン的主体の形成に影響する主だった要素なのだ。

 ノマド的主体は、複雑性理論の一部門であり、徹底した変容の倫理をたえず強調する。これは、歴史的偶発性と文化的コードが主体形成において果たす役割を否定するものではなく、まさにこうした諸要因に対して、その構造と構成が被りつつある変化に見合うよう、重大なアップデートを施すことである。

 わたしたちは「現在にふさわしい」ものでなければならず、つまりは現代文化の一部として、この特殊な世界の主体性を身体化し状況に埋め込まなければならない。ポストヒューマン的思考は、現実的なものからの逃走とは程遠く、現代的な主体をそれ自身の歴史性の諸条件のうちに書き込むのである。

 言うべきことは何もなく、すべてはなすべきことなのである。生命は、単に生命であるというだけで、エネルギーの諸々の流れを現勢化させることによって自らを表出するものなのだ。

ポストヒューマンの倫理

 わたしたちの集合的な歴史におけるいまという特定の時点において、わたしたちは、自らの肉体をともなう自己、精神、身体がひとつのものとして実際に何をなしうるのかまったく分かっていない。それを明らかにするために、わたしたちは諸々の強度で実験する倫理を受け入れる必要がある。

 ポストヒューマンになるということは、人間たちに無関心になるとか、脱人間化されるとかいったことではない。それとは逆に、ポストヒューマンになることは、むしろ倫理的な諸価値を、領土的ないし環境的な相互連結を含む広い意味での共同体の福利へと、新たに結びつけなおすことを含意するのである。

 こうしたプロセス志向の主体観は、道徳的及び認知的な普遍主義を拒否するものの、ある普遍主義的な射程を可能にしている。この主体観は、集合性と関係性という強い感覚にもとづいて、部分的だが地に足のついた説明責任を表しており、それは共同体と帰属性についての権利要求を特異な諸主体にもとづいて更新することに帰結する。

 ポストヒューマンなノマド的倫理の鍵概念は、否定性の超越である。

アフォーマティヴな政治

 日常生活のありふれたミクロな実践に根ざしつつ、希望を肯定することを目指す集合的な企図の追求は、持続可能な諸々の変容を準備し、維持し、計画するための戦略である。希望を社会的に構築しようとする動機づけは、応答責任ないし世代をまたぐ説明責任という感覚に根ざしている。

 ポストヒューマン的思考は、単一の自己というヴィジョンと主体の形成過程の目的論的な解釈とを超えたところで現代の諸主体を支持し、変化しつづける世界とシンクロしポジティヴな差異を作り出そうとするその営みを支えることができるのだ。

 ポストヒューマン理論にとって、主体とは横断的な存在物であり、非-人間的な(動物、植物、ウィルスの)諸関係のネットワークのなかに完全に埋没し、そこに内在している。

 理性的な意識は、まったくもって垂直に超越する行為ではなく、むしろ、徹底した内在性という基底的な行為において鋳造しなおされ下向きに押し込められるのである。それは自己を世界へと押し広げる行為であり、世界を内に包み込む行為でもある。

ポストヒューマン的な、あまりにも人間的な 

  すなわち、わたしたちの集合的および個人的な強度は、人間的な、あまりにも人間的な諸々の資源と限界によって枠づけられており、ポストヒューマンなるものへのわたしの関心は、ある意味でこのことにわたしが感じているフラストレーションを如実に反映している、と。本書でわたしが書こうと努めてきたことには、いらだちとともに期待が含まれている。

 社会と科学を集合的に進展させつづけた結果、わたしたちちの眼前でまさに開けつつある諸々の潜勢的な可能性に対する最良の対処法とは、具体的で現勢化された実践なのである。人間の身体化〔=身体をもつこと〕と主体性は、目下のところ深刻な変異を遂げつつある。

『ポストヒューマン―新しい文学に向けて』ロージ・ブライドッティ/著、門林岳史/監、大貫菜穂、篠木涼、唄邦弘、福田安佐子、増田展大、松谷容作/共訳より抜粋し流用。