mitsuhiro yamagiwa

V 理性の確信と真理

理性の立場と「観念論」の成立

 自己意識の思考はそれじしん現実である。自己意識はしたがって、現実に対して「観念論」として関係するのである。自己意識にとっては、このようにみずからを把握することによって、あたかも世界がいまはじめてじぶんにとって生成してきたかのようになる。

 以前には、自己意識は世界を理解していたののではない。世界を欲望し、労働をくわえて加工していたのである。

「断言する」観念論

 意識に対しての実在あるいは真なるものは、存在することの規定されたありかたであって、他方の側面においては、存在することはただ意識に対して存在することであるという規定性をともなっている。しかしこの両者はひとつの真理へと還元される。つまり、存在するもの、あるいは自体的なものは、ただそれが意識に対して存在するかぎりで存在し、意識に対して存在するものはまた自体的にも存在する、ということだ。

 「〈私〉に対して他なるものが存在する。〈私〉以外の他なるものが私にとっては対象であり、実在である。いいかえれば、〈私〉が私にとって対象であり本質であるとしても、私が対象であり本質であるのは、〈私〉が他なるもの一般から身を退いて、ひとつの現実として他なるもののかたわらにならんで立ちあらわれるときである」。

ーー意識というものは、他なる存在に対するその関係、あるいはみずからの対象との関係をさまざまなしかたで規定することだろう。

「カテゴリー」と悪しき観念論

 カテゴリーの本質は、ほかでもなく他であることにあって、もしくは絶対的な区別において直接に自己自身とひとしくあることだからである。区別はそれゆえ存在するとはいえ、それはかんぜんに見とおされるものであり、区別でありながら同時にいかなる区別でもない区別としてなのだ。この区別がカテゴリーの数多性としてあらわれるのである。

 カテゴリーのうちには区別が、あるいは種類が存在するということである。

ひとつの純粋なカテゴリーと、多くのカテゴリー

「多くのカテゴリー」というのが、すでに両義的なものなのである。それは同時に純粋なカテゴリーに対立して他であることであって、つまりそれが多であることそれ自体において他であることをそなえているのだ。多くのカテゴリーは、純粋なカテゴリーに対して、この「多であること」をつうじてじっさいに矛盾している。だから純粋な統一は、この数多性それ自体を廃棄せざるをえない。

 純粋なカテゴリーが指示するものは種であって、この種が否定的なカテゴリー、あるいは個別性へと移行してゆく。

 この「他のもの」といわれるものも、それが存在するときには消えうせており、それが消失するさいにまた生みだされるものなのだ。

空虚な観念論はむしろ絶対的な経験論である

 意識はこうしてみずからが一方ではあちらこちらへと探しまわるはたらきであって、その対象のほうが純粋に自体的なものであり、実在である。他方では意識のがわこそがみずから単純なカテゴリーであって、対象のほうが区別されたものの運動なのだ。意識はしかしその本質においては、右にみたような経験の全体そのものであり、単純なカテゴリーとしてのじぶんの外に出て個別的なありかたへ、また対象へと移行し、対象においてこの移行の経過を直観して、じぶんから区別されたものである対象を廃棄したうえで、それを我がものとし、みずからがこの確信であることを、つまりいっさいの実在性であり、くわえて自身が対象でもあることを言明するものなのである。

 理性はこのように手はじめに対象においてみずからを認識するが、そのような理性が表現するのは空虚な観念論である。

『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。