mitsuhiro yamagiwa

B 理性的な自己意識がじぶん自身をつうじて現実化されること

 私は他者たちとの自由な統一を、他者たちにおいて直観するが、それはこの統一が私をつうじて存在するように、他者自身たちによっても存在することとして直観されるのである。私は他者たちを私として、他者たちは私を他者たちとして直観するのだ。

a 快楽と必然性

 存在は自己意識にとって他の現実であり、それはみずからの現実とはべつのものとして対立しているのである。かくて自己意識が向かうところは、自己意識のじぶんにとっての存在をかんぜんに実現することによって、みずからを他の自立的な存在者として直観することである。この最初の目的とは、個別的な実在としてのじぶんを他の自己意識のうちで意識することになることなのだ。ことばをかえれは、この他のものをじぶん自身としようとすることである。

自己意識と快楽と、その享楽

 自己意識がみずからを把握するのは、この個別的な、じぶんに対して存在する実在としてである。たほうこの目的が現実化されることは、それ自身その目的が廃棄されてしまうことである。自己意識がじぶんにとって対象となるのは、この個別的なものとしてではなく、かえって自己自身と他の自己意識との統一としてであるからだ。つまりは、廃棄された個別的なものとして、あるいは普遍的なものとしてだからである。

必然性あるいは運命(Notwendigkeit)のありか

 自己意識はみずからの実現をただ前者の〔肯定的な〕意義においてのみ把握していたのだから、自己意識の経験は矛盾をふくむものとして、自己意識が意識するところに入りこんでくる。そのような意識をもつかぎり、自己意識の個別性が到達されて現実となったありかたは、否定的な実在によって無化されたものとして見えてくる。その否定的実在は、現実性を欠いたままに、自己意識によって到達された現実にむなしく対立していながら、それでも自己意識を喰いつくす威力となっているのだ。この否定的実在こそが概念にほかならず、ここで概念とは問題の「個体性とはそれ自体においてなんであるか」をしめす概念なのである。個体性はしかしなお、もっとも貧しい形態において、みずからを実現する精神であるにすぎない。

 すなわち、それが「なにをなすのか」、その「規定された法則がどのようなものであり、積極的な内容がなんであるのか」について語られようもない、ということである。その理由は、運命とは絶対的な、存在として直観された純粋な概念そのものであり、単純で空虚な関係である点にある。

 統一、区別ならびに関係はどれもカテゴリーであり、それぞれそれ自体として、それだけではなにものでもない。つまり、ただじぶんの反対のものとの関係のうちにあるにすぎず、それゆえ離ればなれになることができないものである。これらのカテゴリーは、みずからの概念をつうじてたがいに関係づけられているのである。

 そしてこういった絶対的な関係と抽象的な運動こそが、必然性をかたちづくっている。個別的なものにすぎない個体性は、ようやく理性の純粋概念をその内容とするものにとどまっている。

 個別性に分かちあたえられたものは、空虚で異他的な必然性としての、死せる現実である自己であったにすぎないのである。

『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。