mitsuhiro yamagiwa

 

 いまや文化産業、情報産業は、人間の「意識の時間」を開発=搾取の対象とする。

第Ⅰ章 哲学者と技術

 技術が産業を通じて科学に接近する一方で、以来「知識人」と呼ばれることになる人びとの世界が、テクノロジーへと変貌した技術から切り離されると同時に、科学から、経済から、そしてついには政治経済から切り離されるのです。

 ファンタスムを生じさせ得るものとしての運転を考えるために、スピードとパワーが生み出すファンタスムとは別に、機械の限界における運転を考えることが可能でなければならないのです。

 比喩的な意味にとどまらないある意味で、哲学をするとは常に何らかの仕方で「機械を限界まで持ってゆく」ことです。哲学するとは、問題の限界にまでーーそのおおもとの限界まで、つまり問題の根源にまでーー進もうとしてやまないことです。根源的な思想は事物の根を捉えますが、私が哲学者の活動を通じてこの根として見出したと信じるもの、それがまさしく技術なのです。つまり機械でもあります。

 起源と帰結の間には[存在の]本質に関わるだけではない、偶有性のプロセスがある。この過程でさまざまな事物が生起する結果、形而上学の幻想に反して、帰結がすでに起源の中にあるわけではないということになるのです。私の考えでは、この偶有性(とそれが呼び寄せる系譜)を考えることこそ、哲学ができなければならないことなのです。

 重要になるのは運転、そして運動を成り立たせる偶有的過程、痕跡でしょう。この痕跡は、運動が偶有的である(痕跡、跡であるこれらの瘢痕の起源に偶有事がある)というまさにその意味で運動において成立し、またこの痕跡はトラウマ、ファンタスム、フェティッシュとしての運動を、欲望の要因としての「第一動者」に結びつけます。

哲学的対象としての技術

 技術的な事柄の背後には、技術がなすものと、具体的に賭けられているものがある。

哲学の起源と技術の抑圧

 ある意味、哲学が技術を抑圧するプロセスは今日ではより強く、またこの場合、言葉本来の意味での反動性(ニーチェがこの言葉に与えた意味。今日の経営学が言い立ててやまないあの「即応性」と奇妙に呼応しますがーーこの反動性と即応性は同じプロセスの二つの側面です)としてより強くなっています。われわれは技術の力の猛威に、「非人称的な力」とブランショが呼んでいた猛威に曝されているだけに、なおのことです。ハイテク化した技術の発展が度を越して加速し、今日世界中の人びとの内にとてつもない方向喪失感を生み出しているのです。

*「非人称的な力」とブランショが呼んでいた力「現代人とは、自らを最終的な人間だと思い込んでいる人間であり[…]だがその一方で科学の非人称的な力と、現代人を諸々の価値基準から解き放つこの事件[神の死、ニヒリズム]固有の力に押し流され、現代人は自らを超えるある力を手にしている。その力において自らの限界を超えようとすることもなしに」。

 この対立に還元されるのは根源における複雑性であり、そこでは要素はまさに単体ではない、なぜならまさしく要素は常にすでに「追補的」つまり技術的、あるいは「補綴的」だからです。

『偶有からの哲学 ― 技術と記憶と意識の話 』ベルナール・スティグレール/著、浅井幸夫/訳より抜粋し引用