仕事における偶然性の契機とその克服
いまや偶然的となるのは、目的を表現するべき手段が選択されるべきである〔ということそのもの〕なのである。
行為と存在の統一と「ことがらそのもの」の成立
意識が経験しているのは、じっさいにはみずからの概念であり、その概念のうちで現実とは一箇の契機にすぎない。現実とはつまり、意識に対して存在する或るものであって、それ自体として、それだけであるものではないのである。意識が現実を経験するのは、消失する契機としてであるから、現実は意識にとってそれゆえにただ一般として、しかもその普遍性が行為とおなじものである存在一般として見なされるにすぎない。
普遍的なものとしての「ことがらそのもの」
「ことがらそのもの」は類であり、その類は、これらすべての契機を種としてそのうちで見いだされ、たほうでは同様にそれらの契機から自由なのである。
欺きの具体相ーー「創作」と「批評」という欺瞞
ことがらが問題であるのはかえって、ことがらとして、すべてのひとびとに対して存在する普遍的なものとしてなのである。
あらゆるひとびとの、またおのおののひとの行為である「ことがらそのもの」
ひとつの意識が、なんらかのことがらを提供する場合、その意識がかえって経験するところは、他者たちが、搾りたての牛乳にたかるハエのように駆けさんじてきて、じぶんもその件にかかわわりかあるのだということである。
意識がかくも経験するのは、くだんの諸契機のいずれも主語ではなく、むしろみずからを普遍的なことがらそのもののうちへ解消するという消息である。
カテゴリーとはかくて、同時にいっさいの内容なのである。
『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。