3-1なぜ地層を概念にするのか
地層はまさに「層」であり「帯」であって、その本質は、質料を形式化し、共鳴と冗長性に基づく安定したシステムのうちに強度を閉じ込め、特異性を固定して、地球というこの身体の上に大小の分子を構成し、それらの分子をさらにモル状の集合体へと組み入れていくところにある。
地層はそれ自体相対的な脱領土化の速度に突き動かされるとともに限定されているのである。しかも、絶対的な脱領土化はそもそもその初めからそこにあり、地層とは存立平面上での降下ないしは凝固であって、存立平面はいたるところに存在し、いたるところで第一のものであり、つねに内在的である。
地層はつねに大地の一部としてある。大地は絶対的な脱領土化そのものであり、地層化はそれを相対的に堰堤的な形態のもとに組織化するが、それは大地を締め出すことを意味せず。むしろ大地はつねに第一のものとして地層に浸潤している。
地層化はつねに大地のうちで起こる相対的な減速である。
私というひとりの人間は諸々の分子の集合としても、あれこれの遺伝子の表現型の集合としても、社会 – 心理学的な諸々のファクターの帰結としても構成されている。
現代はとりわけ「どの地層がどの地層と交通するか予測することができない」時代だと述べる。
批判的であることはすなわち予防的であることなのだ。その意味でドゥル―ズの哲学は「用心」の哲学なのだ。われわれは放っておくと物自体を認識できると思い込むし、運動を不動のコマにバラしてしまうし、科学的言語の普遍性を信じてしまう。それは計算間違いのような知的能力を襲う偶発的な「誤謬」ではなく、知的能力そのものに内属する傾向性が生み出す「錯覚」である。『千のプラトー』に通底する「動物への生成変化」という気宇壮大にも見えるプロジェクトをたんなる文学的な反道徳のアジテーションに留まらないものにするためには、そしてそれ自体が新たな超越に堕さないように用心するためには、〈人間〉という錯覚の診断が基礎になければならない。
5「カントが指摘したのは次のことであった。思考は、誤謬によってというより、むしろ避けがたい錯覚によって脅かされているのであり、そうした錯覚は、どんな羅針盤もその針が狂う、言わば内なる北極としての理性の内部から到来する」。
〈人間〉を構成するものについての倫理的な観点から言えば、ドゥルーズ&ガタリは「有機体 organisme 」「意味性 signifiance 」「主体性 subjectivation 」がわれわれをもっとも直截に拘束する階層となっていると述べる。これらをもっと身近な言葉に置き換えれば、「健康」、「空気を読むこと」「自己責任」に対応するだろう。
われわれは健康な身体として、諸々の器官を組織し、身体を適切に分節しなければならない(「手はお膝に……」)。われわれは空気を読む解釈者として他人の顔色を伺い、自身の意味がそれに沿うよう配慮しなければならない(「何だその顔は……」)。そしてわれわれは自己責任の主体として、言われた言葉のなかの「私」というシニフィアンにそれを言った私をシニフィエとして詰め込まなければならない(「君が言ったんだろう」)。
『非美学』福尾匠/ 著