41 観照と活動の転倒
おそらく、近代の諸発見が引き起こした精神的結果のうちで最も重要なものは〈観照的生活〉と〈活動的生活〉のヒエラルキーの順位が転倒したことであろう。
肝心な点は、真理や知識がもはや重要でないということではなく、真理や知識をもたらすのは観照ではなく、ただ「活動」だけであるということであった。ついに自然からーーというより宇宙からーーその秘密を奪い取ったのは、望遠鏡という器具であり、人間の手の仕事であった。
行為を信じ、観照あるいは観察を信じない理由は、ますます説得力をもつようになった。存在と現象が袂を分かち、真理がもはや眺める人の精神の眼に姿を現わし、自らを明らかにし、暴露するとは考えられなくなった後に、はじめて、偽りの現象の背後にある真理を追求する本当の必要が起こってきた。実際、受動的な観察や単なる観照くらい、知識を得、真理に近づくのに信用のおけないものはなかった。確信をもつためには確実にしなければならず、知るためには行わなければならなかった。知識は、二重の条件のもとでのみ確実なものとなることができた。すなわち、第一に、知識は人間が自身で行なったことにのみかかわるということ。したがってその理由は数学である。なぜなら、数学では、私たちは精神が自ら作った実体だけを扱うからである。第二に、知識は行為によってのみ実証できるような性格のものであること。
それ以来、科学的真理と哲学的真理は訣別している。すなわち科学的真理は永遠である必要はない。
思考と観照は同じものではないのである。伝統的に、思考というのは、真理の観照を導く最も直接的で重要な方法だと考えられていた。プラトン以来ーーおそらくはソクラテス以来ーー思考とは、人間が自分自身とかわす内部的対話であると考えられてきた。(プラトンの対話篇でよく使われている句を思い起こせば、「私を私自身に」係らせるのである。)そしてこの対話は外部への現われを一切欠き、他の活動力をすべて多かれ少なかれ中断することさえ必要とする。しかし本来、それは極めて活動的な状態である。
無言の真理は、プラトンが述べたように、言葉によって伝達することはできず、アリストテレスの場合のように、言論を超えるものであった。
概念そのものは、それがさまざまな体系的秩序の中でどこに置かれようと同一のままである。
客観的真理は人間に与えられるものでなく、人間はただ自分の作るものだけを知ることできるという確信は、懐疑論の結果ではなく、立証できる発見の結果だからである。
哲学が、人間的努力を必要とする他のいかなる分野よりも、近代精神によって苦しめられたことは明らかである。しかし、活動力がまったく予想を裏切って先例のない高みにまでほとんど自動的に引き下げられ、伝統的真理ーー私たちの伝統全体を支えている真理の概念ーーが失われたために、哲学がそれ以上の苦しみを受けたかどうかは簡単にいえない。
42〈活動的生活〉内部の転倒と〈工作人〉の勝利
実験とは、観察さるべき現象を作り出すことであり、したがって、そもそもの最初から人間の生産能力に依存している。
実験は、あたかも人間自身が自然の対象物を作ろうとしているかのように、自然過程を繰り返す。
「なぜ」と「なに」から「いかに」への移動は、知識の本当の対象がもはや物や永遠の運動ではなく、過程でなければならないということを意味している。
そして、それぞれ特定の自然物が重要性をもち、意味をもつのは、ただそれらが総合的な過程においてそれぞれの機能を果たしているからにすぎない。今や、見られるのは、存在の概念ではなく、過程の概念である。すがたを現わしそれ自身を暴露するのは存在の本性であるが、眼に見えず、その存在をある現象の表出から推論しうるだけのものは過程の本性である。
近代になって歴史と歴史意識の発見を促した最大の衝動は、人間の偉大さや人間の行為と受難にたいする新しい熱意でもなければ、人間存在の意味は人類の物語の中に発見できるという信念でもなく、実に、人工の対象物に向きあうときにだけにしか通用しないように見える人間理性にたいする絶望であった。
「まったくありそうもないことがいつも起こる」ような人間事象の領域の内部では、出来事こそリアリティの織地を作り上げているのである。
近代の世界疎外は、非常に根源的なものであって、人間の活動力のうちで最も世界的なものである仕事と物化、物の製作と世界の建設にまで拡大している。
この違いは、観照と活動、思考と行為の単なる転倒が示す以上にもっと鋭い。
実際、「観照」というのは「驚き」の別の表現にすぎない。哲学者が最終的に到達する真理の観照は、彼が最初に抱いた、哲学的に洗練された言葉のない驚きだからである。
職人は、対象物を作るとき基礎とすべきモデルの形を内部の眼に浮かべる。プラトンによれば、このモデルは、職人の技術によってただ模倣されるだけで、創造されるものではなく、人間精神が生みだすものではなく、かえって人間精神に与えられるものである。
つまり仕事は、単なる観照の対象となっている限りは永遠なものとして留まっているようなあるものの卓越性を滅びやすいものとし、損うのである。したがって、仕事と製作を導くモデルであるプラトン的イデアにたいしてとるべき適切な態度は、それがあるがままにしておき、精神内部の眼に現われるがままにしておくことである。
人間を圧倒して不動状態に投げ入れるのは、もはや驚きではない。むしろ観照状態に到達するには、活動力、すなわち製作の活動力を意図的に中絶しなければなならないのである。
プラトンの哲学において、無言の驚きは、哲学の始まりであり、終りであるが、永遠なるものにたいする哲学者の愛や、永続と不死にたいする職人の欲求と互いに浸透し合い、ほとんど区別できない。
近代は、あらゆる種類の活動力を凌駕するこの観照の優越性に挑戦した。しかし、その結果、ただ製作と観照の規制秩序がひっくり返されただけであったなら、それは依然として伝統的な枠組みの中に留まっていたことであろう。しかし実際には、この枠組みは無理やり広げられたのである。
『人間の条件』ハンナ アレント/著、志水速雄/訳より抜粋し流用。