個性と私的な家族
表面的な外見の秩序が、時間をかけて首尾一貫した個性となるために欠くべからざるものになる。基本的な感情が「良い」感情と考えられる。複雑な感情は脅威をあたえるものになる。それは安定したものにはならならいのだーー自分が本当に誰なのかを知るためには、役割を整理して、本質的なものにいたらなければならない。
欲求の純粋さは個性に押された意志の刻印だった。個性の原理は、人々が絵のなかに固定しようと決意した領域ーー家族ーーのなかに不安定を創りだしたのである。
過去に対する反抗
より一般的には、公的世界での個性への反抗でない抑圧への反抗は反抗ではない。
逸脱の行為はそれ自体が異常な行為である。自己を表現する自由を感じること、逸脱、異常ーーこの三つの側面は、いったん公的な媒体が個性の表出のための場となると完全に一つに繋がる。
個性の文化にあっては、自由はほかの人々のように振る舞ったり見えたりしないことの問題になる。自由はいかに人間性それ自体が生きられるかのイメージというより、特異な表現になるのである。
自意識は、この種の反抗においては、いかなるときも高められた役割を演じなければならず、それも自発性を直接に犠牲にしてなされなければならない。
個性の自意識はむしろより抑圧するものである。衣服での実験は危険になり、空想の戯れにさいして抑制がかかる。なぜならそれぞれの実験が実験者についての言明だからである。
逸脱はそのとき支配的な文化に対して奇妙な補強の効果をもつものである。
逸脱したものは、何が拒絶されるべきかを鮮やかに明らかにすることで、その他の人々の規範となるものを確立するのである。
芸術家は、本当に自己を表現でき、自由になりえる人物として、観客からはいっそう代償的な役割を強いられることになる。自発的な表現は日常生活においては理想化されることになるが、芸術の領域では現実化されるのである。
要約
前世紀の個性は三つの条件から成り立っていたーー衝動と外見の一致、感情についての自意識、そして異常としての自発性である。個性の源は新しい種類の世俗的信念だった。超越的な〈自然〉は現実の中核としての内在的な感覚と内在的な事情にとってかわられた。
こうして社会へ個性が入り込み、公の場で産業資本主義と交差したところから、公的文化の新しい条件に関する精神的苦悩のあらゆる徴候が生み出されたーー性格を不本意に曝すことへの不安、公的なイメージと私的なイメージの二重重ね、感情からの防衛的撤退、そしてますます強まる受動性。不吉な予感が感じられてもなんら不思議はなく、暗黒がこの時代にたれこめていてもなんら不思議はない。人々が信じられる現実は人々が直接的に体験できるものになったので、内在するものについてのある種の恐怖が人々の生活のなかに入り込んだ。
いまや公的な表現の仕事を達成できるのは偉大な芸術家だけになった。これは一七五〇年代には日常生活のなかで達成されていたものなのである。
「古い前提、古い範疇はもはや有効ではない。われわれは改めて見るように努めなければならない」
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳